〈予知夢〉を見たことはありますか? [アート]
『輪廻転生』の秘密 (自分って、どこから来たのか?) [輪廻転生]
翔ぶが如く!の旅ですよ。 [紀行]
箱根サン=テグジュペリ、ガラスの森美術館へ行ってきました! [日記]
当初は芦ノ湖にも出かけて、海賊船に乗る予定でしたが、今日は朝から一日中雨であることがわかっていたため、美術館めぐりを中心にまわることにしたのです。
まず最初に、『ラリック美術館』に行きました。
ここはルネ・ラリックというフランスの宝飾とガラス工芸の巨匠の作品を展示しています。
中ではさまざまなガラス作品が展示されていました。
次に行ったのは『ガラスの森美術館』です。
ここはとても庭の景色が素晴らしいと所です。
雨が降っていたのがとても残念です。
中のミュージアムショップでは多数のガラスで作られたグラスやアクセサリーが販売されていて、ショッピングを楽しみましたヨ。
この『ガラスの森』には、雨が降っていないときにまた来て見たいと思いましたネ~。
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次は、『星の王子さまミュージアム(箱根サン=テグジュペリ)』です。
入り口をくぐり、その先に広がるここのヨーロピアン・ガーデンもとても素晴らしいところでしたヨ。
展示ホールでは飛行士でもあったサン=テグジュペリの人生の軌跡をたどるように写真や作品などが展示されていました。
『星の王子さまミュージアム』のあとは、『ポーラ美術館』へ行きました。
『ポーラ美術館」では、ルノワールやスーラ、セザンヌなどのたくさんの有名作家の作品が展示されていました。
日本の洋画もあって良かったですよ。
中はとても大きく雰囲気の良い美術館でした。
今日の一日の締めくくりは強羅公園です。
このフランス式庭園は見ごたえがありますヨ。
そのほか、熱帯植物館などもありましたネ。
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<作品をご紹介いたします>
進撃の巨人、が面白い [アート]
『進撃の巨人』っていうコミックが最近人気を得ています。
アニメでも毎週土曜日の夜に放映されています。
話の内容はざっと次のようです。
・・・今から百年前、突如として出現した謎の「巨人」たちにより、人類は絶滅の危機に立たされた。そこでは人類は、三重の強固な壁を築きその中に逃れ、そこで百年の平和を実現させた。しかし、ある日突如としてその壁をも壊す力を持った超大型巨人が出現した事により、人類は再び巨人の脅威にさらされることになる。そこで主人公のエレン・イェーガーたちが巨人との戦いに挑んでいく。・・・
原作者は諫山 創(いさやま はじめ)さんです。
人間が巨人に喰われるというお話は昔からあるテーマです。
また、動物に人間が喰われることは現実的な問題として現在でもあるわけです。
この『進撃の巨人』の面白いのは巨人に人が捕食されてしまうところにあるようです。
こうした巨人が出現する話の場合、ただ単に巨人や動物が人を殺すというのではなく、『食う』『捕食する』ところにより一層の恐怖感が出てきています。
人が喰われるシーンは恐怖と結びつくためにより一層面白いものとなっています。
巨人が人間を喰うというテーマの絵画ですぐ思い出すのは、『我が子を喰らうサトゥルヌス』でしょう。
これは皆さんもご覧になったことがあるでしょう。
近代絵画の父との異名を持つロココ・ロマン主義時代の画家フランシスコ・デ・ゴヤの作品です。
この絵は、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの間に生まれたサトゥルヌスが、我が子のひとりによって王座から追放されるとの予言を受け、次々と生まれてくる息子たちを喰う逸話の場面を描いた作品です。
『我が子を喰らうサトゥルヌス』はゴヤの(黒い絵)と言われる作品群の代表的なものです。
黒い絵とは、ゴヤが1819年にマドリード郊外に「聾者(ろうしゃ)の家」と通称される別荘を購入し、1820年から1823年にかけて、この家のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群で、黒をモチーフとした暗い絵が多いため、黒い絵と呼ばれています。現在はプラド美術館に全点が所蔵されているそうです。
ゴヤがこの作品を描く前には、ルーベンスが『我が子を喰らうサトゥルヌス』という作品を残してます。
これはバロック期を代表する巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens 1577-1640)が残す傑作的神話画です。
さらに巨人が人間を喰うのならまだしも同じ人間が人間を喰うということはもっと恐ろしいイメージと結びつきます。
サルバードール・ダリの作品では『秋の人肉食(カリバニズム)』という作品があります。
カニバリズム( cannibalism)というのは、人間が人間の肉を食べる行動や宗教的な習慣をいいます。
サルバドール・ダリ 『秋の人肉食(カリバニズム)』
巨人、というテーマでよく知られるのは何と言っても『ガリヴァー旅行記』でしょう。
『ガリヴァー旅行記』は、、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの風刺小説です。
ガリヴァーはさすがに人を食うということはなかったみたいですが、「人が人を喰う」というモチーフは人間が大昔からの進化の過程で動物が他の動物を食べることを繰り返してきた記憶と無関係ではないでしょう。
昔話でも『赤ずきん』は狼が人間を喰うから面白いわけで、これが単に狼が人間を殺してしまう、ではだめなのでしょう。
人がペロッと跡形もなく喰われる話だけがずっと読み継がれて残っているわけです。
中国では昔はいくさで勝つと敵を醢(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上等の酒に漬けて密封したもの)にして食べたそうです。
孔子もこれが好物だったそうですよ。
現在でもどこかの発展途上国ではあるいはそうした風習があるのかも知れませんが。
ひと昔前の中国では偉い人が自分の家に訪ねてきたときに最大のもてなしとしてその家の娘を食事としてさし出すといった話もあります。
三国志などにそうした話が美談として出てきます。
言葉の上でも「あいつは人を喰ったような態度をしてけしからん」などという言い回しがあるように、「人を喰う」とか、「人に喰われる」というイメージは強い不快感や恐怖心と結びついているようです。
われわれ人間は誰しも自分が生活している環境に強い影響を受けているわけですから、これを「環境に食われている」と考えてもよいでしょう。
会社で働いている人は人間関係や仕事上の事などで常にストレスにさらされていますが、あまりにも会社に順応しすぎてしいまうと自分の個性を見失ってしまって、まさに「喰われて」しまった状態になっていくわけです。
さらにいうと、人は誰でもその生きている時代に絶対的な影響下にあるわけです。
どんな天才でも時代の制約から逃れることはできません。
天才は後々の時代にいろんな影響を及ぼすことはできますが、現実的にこの世に生きている以上、その時代の文明や文化の中に閉じ込められているわけです。
こうしたことから、人は「時代に喰われれている」とも言えます。
『友人たちとの歓談』
また、人は誰でも他者に対してなんらかの影響を与えているわけです。
有名人でなくても、生まれたばかりの小さな赤ちゃんでさえ、その存在自体が親や兄弟などその周囲に大きな影響を与えているわけです。
そして周囲の人たちの人生をいろいろと変えてしまっていく。
人間はどんな小さな人であっても、他者に大きな影響を及ぼしているわけです。
ですから、人を喰ったような顔をしなくても誰しもが人を喰っているといってもいいかもしれません。
どんなに自由に生きていると思われる人であっても、常に誰かに喰われているのです。
『進撃の巨人』では巨人との戦いが大きなテーマですが、われわれ人間は誰でもその生きている「時代」という巨人との戦いがテーマなのでしょう。
近現代の歴史の中で知られるもっとも大きな“破壊”といえば第二次世界大戦でしょう。
しかし、核によるテロリズムが起きる恐れがますます大きくなってきている現在、今後はそれを上回る破壊の巨人が襲ってくることは十分に考えられることです。
まさに「ある日突如としてその壁をも壊す力を持った超大型巨人」が出現しても不思議ではありません。
さらに、そうした政治状況だけではなく、人は病気や家庭環境などにも縛られて生きていることは言うまでもないことですね。
『進撃の巨人』で語られる、「その日、人類は思い出した。やつらに支配されていた恐怖を。鳥かごの中にとらわれていた屈辱を」は、まさに現代を生きている人類が実感することではではないでしょうか。
民主主義の国に生きている私たちは以前よりもずっと自由に生きています。
しかし、ちょっと考えてみれば、それは依然として“鳥かご”の中での自由でしかないのに気づかされるはずです。
話では巨人の出現は人類にとって不幸な出来事として描かれています。
しかし、ここで考え方を180度変えてみると、超大型巨人の出現によって壁が破られ、そして鳥かごの中に安住していた人間が戦いに挑むことになるわけです。
この事は私たち誰もが自分の問題として考えてみる必要があるような気がします。
われわれは物事が上手くいっている時はわからないのですが、それはしょせんは鳥かごの中で安住しているだけといえるのです。
この“鳥かご”に安住する、っていうのは、ある意味で一つの成功を収めているから出来るわけでしょう。
しかし、人というものはひとたび“成功”してしまうと、その成功の軛(くびき)にとらわれて、さらに別の大きな世界に飛び出すことが出来なくなるものです。
たとえば、皆さんのなかには、今やっている仕事は一応は上手くいっている。
でも、何かこれは本当に自分がやりたいことではないんじゃないか。
本当は自分にとってもっと大切な別なことがあるんではないか?
でも、今の仕事を辞めることは損なことになる。
会社を辞めると経済的にも困ってしまうだろう・・・
こうした思いを持っている人が多くいるのではないでしょうか。
『進撃の巨人』では主人公のエレン・イェーガー自身がついに巨人になって戦うことになります。
わたしたちも、自分の住んでいる“鳥かご”の壁が破られたならば、エレンのように普通の人から“巨人”に変身できる可能性があるでしょう。
もちろん、その前には巨人に捕食されるという大変な危険がありますが。
鳥かごの中で小さくまとまって生きていくのか、それとも鳥かごを飛び出して大きな世界に飛び出してみる危険をおかすか。
今の自分のままで本当に良いのか?
しかし、人はどんなに鳥かごの中で安住していようを思っていても、いずれは“超大型巨人”の出現によって、いやが応でもでも鳥かごの壁が破られてしまう事になるものです。
それはテロや戦争だけではなく、大地震のような自然災害かもしれません。
あるいは、病気を患ったり人間関係の変化などの個人的な出来事かもしれません。
人の世の中なんてものはギャンブルみたいなところがあって、これで絶対安心だ、ってことはないわけでしょう。
だったら、いっそのこと覚悟を決めて自ら鳥かごの壁を壊してみてはどうだろうか。
あえて現在の成功を捨てる事、鳥かごの安定を捨てる事です。
人間は何か「自分はこれに賭けるんだ」というものがなければ面白くない。
何でもいいから一度でも「自分の人生はこれに賭けた!」と言えるものがなければ、その人は巨人にただ捕食されるだけの人に終わってしまうでしょうでしょうね。
私たちは今まさに、「鳥かごの中にとらわれていた屈辱を」思い知らなければいけません。
『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』 [アート]
病気をテーマにした書物が世の中には無数に出版されています。
でも、それらは私たち大人の視点から見た病気であり医療なのであり、子供の目で見たものではありませんネ。
今日、この『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』を取り上げたいと思ったのは、この作品が子供にとっての病気と言うものはどういうものなのだろうか、または、子供にとっての死とはどのようなものなのかといったことを考えさせてくれる、ひとつのヒントになるのではないかと考えたからです。
はたして、子供にとって、自分や親しい友達が重い病気にかかるということはどのような思いがするのでしょうか。
私自身のことを振り返って見ると、いったいいつ頃から病気の怖さを意識し始めたのかはっきりしません。
私は幼稚園に通っていたときに扁桃腺炎で手術入院をしたことがありますが、死に直面するほどの重病でなかったためか、そしてまだ幼かったためか、そのときにははっきりと病気の怖さを意識はしませんでした。
死というものを意識しはじめたのは、恐らく小学校低学年のときに叔母がまだ若くして病気で亡くなったときでしょう。
そのとき、訪れた病室で白い布が叔母の顔に掛けられてあったのを鮮明に覚えています。
この時、これが死というものなのだと感じたような記憶があります。
この『チャーリー・ブラウン なぜなんだい』では、ライナスとチャーリー・ブラウンがジャニスの突然の入院によって、病気、あるいは、死というものに向きあうことになります。
病気というものは、人の心をその“内面”に向かわせてくれるものなのでしょう。
そうしたところから発せられた疑問がライナスの「どうしてチャーリー・ブラウン。なぜなんだい?」という言葉なのではないでしょうか。
私たち大人と、子供との違いはいったいなんでしょうか?
それは、大人に比べて、子供と老人はより死(あの世)に近い存在だということです。
つまり、子供はあの世からやってきた存在であり、老人は近い将来あの世に逝かなければならない存在であるという意味で、死に近い存在だと考えられます。
そこで考えられる事は、子供にとっての“病気”、あるいは“死”はわれわれ大人が考えるそれとは自ずから違ったものになってくるのではないか、ということです。
児童文学は子供だけが読む子供だけのための読み物ではなく、それは子供の目を通してみた世界が描かれている文学だと思います。
そして子供の目は大人と違って常識に曇らされていないので、案外物事の本質を見抜いているのかもしれませんよ。
『Family』
絵画などの創作現場では、常に常識との戦いとも言えるでしょう。
常識に曇らされた自分をいかに突き破るか、と言うことです。
そうした戦いによって新しい創造が出来るわけですからネ。
かといって、単に奇をてらった変わったものを作ろうとしても、それが創作とはならないことも多いわけで、そこが難しいところです。
これは、何も芸術作品の創作現場だけのことではないでしょうね。
わたしたちは、普段の日常生活におきましても、何かに向き合うに当たって“子供の目”でもって物事を見ることが時には必要なのかもしれませんね。
この『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』は、人の病気や死、さらに“創作”という事についていろいろと考えさせられました。
『パウル ・クレー 終わらないアトリエ展』 [日記]
プロテインジュースにリンゴ、バナナと乾燥プルーンを食し、DNA&RNA核酸とエンザイムを摂って、京都国立近代美術館で行なわれている『パウル・クレー おわらないアトリエ』展に行ってきました。
9時30分から開館で、わたしは9時45分頃には入ったのですが、今日は憲法記念日のゴールデンウィークの真っ最中と言う事もあり、すでにかなり人が入っていました。
パウル・クレーについては、先日にアップしました「芸術論編」の中で簡単に書きましたが、日本では「日本パウル・クレー協会」っていうのがあるくらい、人気のある画家ですネ~。
わたしも、クレーの作品は何度か観たことはありますが、今回のようにたくさんの作品を直接に観るのは初めてです。
クレーの作品はたくさんあるのですが、今日も本などでは見たことがなかった作品もかなり展示されていました。
一番みたかった作品の『死と炎』はありませんでしたが、迫力のある作品がいろいろあり刺激的です。
会場の京都国立近代美術館は、真正面に京都市美術館があり、また北側にはすぐ近くに平安神宮があります。
とても雰囲気のいい場所ですよ。
クレーの作品集はわたしも4冊持っていますが、今日のように本の中で見る作品を直接観ると、本では伝わってこない音楽が聴こえてくるような感じです。
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<作品をご紹介いたします>
『歩む人』
『死と炎』・・・Paul Klee [アート]
私も見に行こうと思いまして、前売り券を購入していますが、まだ行けていません。
近々、行く予定ですが、その前に予習がてらクレーについて調べてみましょう。
パウル・クレー(Paul Klee)は、1879年12月18日にスイスのミュンヘンブーフゼーという所で生まれます。
クレーは絵画の才能とともに音楽の才能もあり、ヴァイオリンの腕は11歳の時にはベルンのオーケストラ・メンバーになるほどで、その後も生涯、ヴァイオリンを弾き続けたようです。
画家としてのクレーは、独自の芸術的表現を保った画家です。
キュービスムやダダ、シュールレアリズムなどと関係はしているが、それらに属しているとはいえない、さりとて、抽象画とも表現主義ともいえない、というようにです。
私たちが知る有名な画家の中では、カンディンスキーとは深い交流があったようです。
後年にはナチスによって退廃芸術とみなされて、1937年にはドイツ国内にあった102の作品が没収されたりもしています。
晩年は皮膚硬化症を患い、1940年、60歳で亡くなります。
クレーは日本でも大変人気が高く、クレーを愛好する方々によって、1997年には、『日本パウル・クレー協会』というのが設立されています。
クレーの作品の中で、私がいちばん好きな作品は、『死と炎』という作品です。
この作品は亡くなる1940年に制作された最晩年の作品の一つです。
パウル・クレー 『死と炎』
クレーは息子のフェリックスに次のような言葉を語ったといいます。
「死は厭(いと)わしいものではないと、ぼくはかねてから自分にいいきかせてきた。大切なのはこの世か、それとも来世か、はたしてだれにわかるだろう? この先、よい仕事をもう少しやり終えたら、ぼくはよろこんで死んでいく。」
クレーだけではなく、およそ芸術家というものはいつも本質的に“死”と何らかの形で向き合っているのかもしれません。
この作品は、第二次世界大戦の時代を生き抜き、最期には皮膚硬化症と言う難病におかされ、死を目前にした彼の代表的な作品と言っていいでしょうネ。
今回、京都国立近代美術館で開かれている『パウル・クレー展 おわらないアトリエ』で、はたしてこの作品は展示されているでしょうか?
『死と炎』をはじめ、クレー作品を直接に間近に鑑賞できるのは楽しみです。
紫舟、紫舟ッ [日記]
プロテインジュースにバナナ、リンゴ、プルーンを食し、核酸に酵素、EPA&DHAを摂って、三ノ宮のそごう神戸店に出かけました。
今日の目的は、書家・紫舟(ししゅう)の作品展『おはよう ありがとう ごめんなさい』展を観にいくことです。
紫舟さんが書家をスタートさせたのがこの神戸だそうです。
紫舟さんの作品で面白いのはこの様な立体の書があることです。
このような立体作品やゆれる書などあり楽しい展覧会です。
紫舟さんの書は、大変力強い作品や対照的に繊細なものがあり、とても刺激的ですネー。
これはゆれる書で、字がゆらゆらと揺れています。
紫舟さんも時間によっては会場にいるそうで、私も少し話をしたかったのですが会えなかったのは残念です。
将来、私の展覧会に紫舟さんが来てその時は会えるかもしれませんネ~。
これはSOGOから見た三ノ宮駅です。
神戸も阪神淡路大震災から現在ではこの様に復興しました。
今回の東北・関東大震災にはその規模の大きさにまったく驚きです。
自然の驚異には本当に恐ろしいものです。
大震災からの復興が順調に進みますことをただ願うばかりです。
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<作品をご紹介いたします>
『さかな およげ泳げ』
『兄妹仲良し』
私は彫刻と書をまったく区別していない(2) [アート]
今日は、まず下の書作品をご覧下さい。
『こころ』
これは「心」という字です。
では次の作品はどうでしょう。
『沈み心・・・よどみ、迷う』
これも「心」という字です。
上の作品は、漢字を知っている方ならば、恐らく誰でも「心」という字だとわかると思います。
それに比べ、下の作品になると、ほとんど抽象画に見えると言ってもいいのではないでしょうか。
真っ白の紙に真っ黒の字(模様)が描かれてあり、漢字を知らない外国人から観たら、斬新な抽象画に見えるかもしれませんネー。
漢字を知っている人が観るよりも、むしろ外国人のほうがその意味を知らないために、より素直に印象深く感じるかもしれません。
皆さんはこの二つの「心」のどちらに心打たれましたか?
え!? どちらもなんとも感じない、ですって?
うーン、それでもいいのです。
アートというものは、まさに人との出会いと同じです。
皆さんも異性に一目惚れしたことってあるでしょう?
一目惚れは、自分のその時の内的状況とタイミングによって、いわば偶然に起こるものですネェ。
たとえば、目の前に突如、恰好いい男性が現れたとします。
でも、必ずしも一目惚れをするとはなりませんねぇ。
その時に、病気でもがいていたり、仕事に振り回されていて忙しくて仕方がない場合なんか、一目惚れなんかしている余裕はないでしょう!?
または、ここの作品に感動して、目の前の男性が色あせて見えるって事もあるかもしれませんヨー!?
アートとの出会いも人との出会いと同じなのです。
“その時”の自分に必要とする“何か”が、絶好のタイミングで作品として目の前に現れた時、作品は強烈なインパクトを持って自分の魂を突き動かしてしまうものなのですから・・・
ところで、漢字を知らない文化の人が書作品を観るということは、われわれが外国語の音楽を聴いた時に、その意味がわからなくても感覚で楽しんでいるのと似ています。
言葉の意味がわからなくても、聴いていて何となくいいものはいい音楽だし、悪いものは悪いのです。
『秋』
書作品でも同じです。
むしろ、漢字の意味を知らない人の方が私たちよりも、より新鮮に何かを感じ取ることが出来るかもしれません。
逆に、漢字文化圏の人が書を観る時は、その字の意味を知っているために、より深く感じて、想いを巡らすことが出来る可能性があるのです。
その字の背景に含まれる意味に、過去の自分を振りかえったりするかもしれない。
また、もっと広く社会や歴史に想いを巡らせたりすることもあるかもしれません。
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では、彫刻の方はどうでしょう。
彫刻は立体的に自分が表現したいものを表現できるのが大きなメリットと言えます。
しかも、一つの作品でも、どの方向から見るかでその表情を変えることができます。
ある方向から見たら喜びの表情が観られ、別の方向から見れば悲しみの表情が観られるというようにです。
このように絵画や書と違って彫刻は、一つの作品に様々な表情を比較的簡単に表現できる可能性があります。
さらに彫刻はその形だけではなく、色、質感、材質などによってもさまざまな表情が表現できますネ~。
『鳥(TORI)』
以上、これまで絵画・書・彫刻について、簡単にその違いを述べてきました。
それでも、私にはそれらはまったく同じものなのですヨっ!!
「へぇー! でも、これまで、絵画も書も彫刻も、それぞれ全く違うって事を言っていたのじゃないですか~? 隼雄さん、いったいなんでそれを同じだって言うの??」ですって?
まぁ、聴いて下さい。
まず、彫刻は絵画や書作品同様、見た目で明らかに何が表現されているものかがわかるものと、そうでないものがあります。
「何が表現されているのかわからない。でも、なんとなく心に響くものがある」というのもあれば、
「何かはわかるが、なんとも感じない」という作品もあります。
これは絵画や書と同様です。
つまり、彫刻でも絵画や書であっても、その作品の内在するパワーと、それを観る人の魂の歴史や感性の深さ、そしてタイミングによって、感じ方は千差万別と言えるのです。
芸術作品は結局は作品とそれを観る人の問題と言えるのです。
言うならば、アートと言うのは、その作品様式が何であれ、作品のもつパワーと自己とのぶつかり合いといえるのです。
どうです?
これで私がそれぞれが同じだと言った理由(わけ)がおわかりですか?
作品と自分とが絶好のタイミングで出会った時、人はそれまでの自分を超える新たな自己発見をすることになるのですよ。
私は、彫刻と書と絵画を、全く区別していない!!
完
私は彫刻と書をまったく区別していない(1) [アート]
さて、今回は絵画のみならず、彫刻や書についても、ひとつ私の“芸術論”を展開してみようと思います。
って言うと、
「オイオイ、そんなに範囲を広げてしまって大丈夫なのかい、あんたぁ!?」って言われるかもしれません。
でも、それが大丈夫なのだ。
なぜなら、私にとっては、絵も彫刻も書も全部ひっくるめて同じものなんだから・・・
ではまずは、書と絵画の違いについてお話していきましょうか。
『福(HUKU)』
まず、私の絵画作品の中には、かなり書の要素が含まれているものもあります。
それらの作品を“絵画”と考えるか“書”と考えるかの区別を、私は便宜上、次のようにしています。
1、字の意味を考えないで純粋にその形状を利用してイメージで描いたものを、「絵画」と考えます。
2、模様が無く字のみの作品、あるいは、字の意味を考えて書いたものは「書」とします。
3、さらに、二度塗り、重ね塗りをしたものは「絵画」と考えます。
4、背景に絵や模様があっても、前面に表現される「字」がテーマとなっているものは「書」とします。
『躍る身、はずむ心』
上の二つの作品を見て、皆さんは絵だと思いますか?それとも、書だと考えますか?
実は私は、作品が絵画であるか書であるかを、あまり難しく考えないようにしています。
どちらも自分を表現する、という意味では同じものであるため、厳密に区別する意義も見出されないからです。
これは私が画家の視点で書を見ているからかもしれませんネー。
“画家が書いた書”と“書家(あるいは書道家)が書いた書”とは自然と違いが出てくるのかもしれません。
私が書作品を書くときは、かなり絵画的な見方で作品を考えていると思われます。
召使いの筆たち
もっとも、アーティストであるならば、私は画家とか書家とかの区別もあまりしたくはないのです。
なぜなら、画家であろうが書家や彫刻家であろうが、大切なのは作品ではなく、その生き方だと思うからです。
アーティストにとって、作品というのは、所詮、出来上がった瞬間から、自分の抜け殻のようなものなのです。
アーティストは作品を創った瞬間から、すでに作品を超えた存在になっているといってもいいでしょう。
また、常に自分の作品を超えようともがいているのがアーティストの姿だともいえますネ~。
アレ?
おかしいじゃないか??
それって、逆じゃないの?
「以前に、『作品は創られた瞬間から作者を超えている』って、言っていたじゃないか」ですって?(『「感じる事」と「わかること」の違い(2)』)
そっ、そうなのでした。
でもこれはチットモおかしなことではないのですヨー。
つまり、こういう事です。
作品というのは、その作者のその時点での内面の表現であって、いわば作者の抜け殻みたいなものだと言うことです。
作者は、作品を創作したときには、さらに次の創造に向かって歩んでいるのです。
それと同時に、芸術作品は、作者の本来の意図を超えて、さらに深いパワーを持つ可能性がある、って言うことです。
作者が、真にその内面を見つめて作品を創作する時、作品は作者の予想をはるかに超える深い力を内包することになってくるのです。
つまり、
“アーティストは作品を創った瞬間から作品を超え、同時に、作品は創られた瞬間からアーティストを超えて動き始める”っていうことです。
おわかりですか?
えっ! 益々わからなくなった?
この芸術論もいよいよ哲学になってきたかな?
いっそうの事、この際、「芸術は抜け殻だ!!」って宣言してしまいましょうか?
でも、“芸術が抜け殻”ではぜんぜん格好良くないので、宣言は止めときます。
私のアーティストとしてのイメージダウンになってしまいそうだし・・・
『魚と一緒に海を泳ぐ姉妹』
閑話休題(それはともかく)、自分が創作した作品にとらわれていては次の作品に向けての創造性がなくなってくるでしょうネ。
ほとんどの人が、創作活動において、自分が創った作品にとらわれて、そこから抜け出せないで苦悩するのです。
アーティストは自分の作品から常に抜け出そうと、懸命にもがいている人とも言えますネー。
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ところで、書の場合は、「字」というその民族の共通認識が背景にあるため、その形態が人々の共有するイメージを呼び起こします。
ですから、書作品を観た時、漢字文化圏の人が観た場合と、そうでない人が観た場合とは、その捉え方は自然と違ってきます。
例えば、『美』という字を考えてみましょう。
『美』という漢字の意味を知っている漢字文化圏の人は「綺麗、すてきなもの」という想い、あるいは、先入観があって、その作品を観るでしょう。
そこから、その作品の善し悪しなどをその人なりに判断することになります。
でも、漢字文化圏でない人は、漢字の意味を知らないから、純粋にその形態からイメージします。
ですから、『美』という作品を場合によっては「醜い、汚い、いやなもの」というような感じ方をするかもしれません。
『美・美・美』
あるいは、美とか醜いとかといったものとは全く違う感じ方をすることもあると思います。
例えば、「美味しそう」「音楽的でリズム感がある」といった様に。
このように、漢字文化圏以外の人はその意味を知らないため、われわれとは違った意外な方向で芸術的価値を見出してくる可能性があるのです。
つづく
いつも、私は全くの白紙の前では、何も描けないでいる!!(2) [アート]
よく、「子供にはその想像力を伸ばすことが大切だ。だから詰め込み教育は問題だ。もっと自由でなければいけない」などと言われたりします。
これについては賛否両論があるでしょうネ。
でも、一つ言えることは、子供がその創造性を伸ばすためには、その土台が無ければいけません。
それが教育であり、躾(しつけ)ともいえるでしょう。
基本的な教育や躾がなければ、創造性につながる土台が出来ないと言えます。
子供にどんなにたくさん自由時間を与えても、そこに創造につながる土台が無ければ、創造性はぐくまれないでしょうネ。
『3つの卵を温めて育てようとするキンカチョウ』
あるいは、自由でありながらも何らかの枠組みがなければならないでしょう。
これについて、カルフと言う心理学者が、“自由にして保護された空間”と表現しています。
カルフという人は、心の病に陥っている子供が、彼女にあずけられるとよく治っていった、っていうスイスの臨床家です。
自由でありながらも、しかも保護されている、そうした空間によってこそ子供はその創造性を発揮し、自らのこころの中心を取り戻していく。
完全な自由放任は逆に創造性の芽を育てる土壌がないとも言えるでしょう。
『家』
100%の自由は逆に何も動けなくなるといえますネ~。
それは言ってみれば、虚空に漂っている存在のようなものです。
その状態では何も掴むものが無く、地に足が着かないため、思うように動けずにただ一人でその場でもがいているだけの状態だといえます。
完全に自由だからこそ、かえって全く動けなくなってしまうのです。
つまり、全くの自由は、かえって創造の力を弱めてしまうのです。
人間の創造力(想像力)なんてものは、案外たいしたものではないものです。
頭をひねって、いろいろと考えても、たいしたものは思いつかないでしょうネ~。
でも、それと同時に、人間には無限の創造の可能性が秘められている事も確かなことです。
その無限に広がる創造の世界につながっていくためには、何らかの土台(芽)がなければならないのです。
そうした自由の中に芽生える芽が、「個性」へとつながってくるのでしょうね。
『森林の栄養、芽』
ここで、再び話をアートにおける創造に戻しましょうネ~。
一般に“創造”には破壊がつきものです。
過去のものを破壊することによって新しいものが創造されていきます。
過去のものにこだわっていれば、いつまでたっても新しいものは生み出されませんネー。
ちなみに、アーティストが“作品を創作する”と言う行為は、常に人類の過去のアートを越えようとする試みであると同時に、それまでの自分を乗り越えようとすることでもあるのです。
ですから、作風がずっと全く変わらないアーティストというのはありえないのです。
そこで、過去のものを越えて、新しいものを作ろうとするには、創造につながる何らかの土台(芽)がなければなりません。
そうした土台がない場合、創造の無い、単なる破壊のみで終わってしまうでしょうネー。
アーティストが、全くの白紙には何も描けないと言うのは、創作の原点となる何らかの“芽”がなければ、何も描けない、と言うことなのです。
私はその土台となるのは、自分が感じた驚きや喜びなどの感性なのではないかと思います。
現在、京都市美術館では『ボストン美術館展』が行なわれていますネー。
私も一昨日、見に行ってきました。
時間によってはとても混み合っているようでした。
美術館に行く目的は人それぞれ違うと思います。
さて、こうした美術館などに行って、歴史上のいわゆる名作と言われる作品を目にして、皆さんはどう感じますか?
“名作”と言われているから、なんとなく素晴らしい作品に思えてはくるけれども、本当のところなんとも思わない作品も結構多いのではないでしょうか。
印象派の作品を前にして、いったいどれだけの人が、“本当に”素晴らしい作品だと感じているでしょうかネー?
肖像画を観て、「凄い!」って感じる人は、いったいどれだけいるのでしょう?
多くの“専門家??”が、それらを“名作”だと言っている。
だから、それを鑑賞して、これは素晴らしい作品だ、となんとなく思う。
そうした鑑賞の仕方も、あるいはいいかもしれません。
でも、そのように鑑賞をした後に、いったい、どれだけの人が、その後の生活や生き方に大きな変化が出てきたと言えるでしょうか?
そうではなく、作品などを目にして、何か、ちょっとでも“自分が”いいなぁと感じる事がある。
それは誰かが良いと言ったからではない。
誰も注目していない事であっても、純粋に自分がそう感じたとき、それが、“芽”となって、自分の世界が花へと開けてくるのだと思います。
『花』
子供が、アートを創作することが出来ないのは、そうした体験がないからなのです。
創作につながる芽がないため、常識に縛られていないにもかかわらず、子供の作品はアートにはならないのです。
アートに限らず、創造的な仕事をする人と言うのは、様々な体験や知識が土台となって、さらにそこにその人自身が感じた驚きや感動が“芽”となって創造へとつながっていくのでしょネ。
単に多くの知識があり、経験や体験をいくらしたところで、それは単なる“物知り”になるだけであって、それだけでは創造にはつながらない。
それを自分の中で、熟成し新しいものを創り上げるには、自分独自の喜びや感動が核とならなければいけないのです。
こうした感動や驚きの体験抜きにいくら絵を描いても、ありふれた作品しか描くことが出来ない。
他人がどう言っているかは問題ではない、自分がどのように感じるかが問題となってくるのでしょうね。
この“自分が”感じる、と言うことが、その人の本質的なものと関わっています。
自分が素晴らしいと感じたことだから、他人がどう思おうが構わない、っていう考えは、あるいは自分勝手な独りよがりになってしまうかもしれません。
『壁の卵たち』
でも、アートの世界では、他者の評価はあまり重要でないでしょう。
こうした自分が何に対して、どう感じ、驚くか、あるいは、何に心惹かれるか。
それが、個性であり、その人の“人となり”であり、そして、本質的なものと言えます。
創造的で世界に通じる普遍性というのは、実にそうした自分の個性を見つめるところから出てくるものなのだ。
他者の評価や人がどう感じるか、っていくら考えたところで、かえって物事の本質から離れていってしまうでしょうね。
そうではなく、“自分が”どう感じるかをみつめることから、創造的発見がなされるでしょうね。
つまり、“個性を極めたところにこそ、物事の普遍性がある”と言うことなのです。
完
いつも、私は全くの白紙の前では、何も描けないでいる!!(1) [アート]
今、ここに目の前に真っ白な画用紙が数枚と、絵具と筆が置かれてあるとします。
ここで「ハイ、皆さん!今から何でもいいですから、この真っ白な画用紙に自由に絵を描いてご覧なさい」
って言われたら、どうしますか?
すぐに絵を描くことが出来ますか?
絵ごころがある人なら、すぐにいろいろと絵を描くことが出来るかもしれませんネェ~。
でも、私にはなかなか描けないのです。
こう言うと、
「へぇー、なぜすぐに絵を描くことが出来ないのですかー!?」
って、言う方も多いと思います。
これは別に不思議でもなんでもなく、ただ私はたいした絵の才能が無いから描けないのです。
でも、実はどんなに才能がある人であっても、まったくの白紙には絵を描くことは出来ないのですヨ~。
「え!?才能がある人でも白紙には絵を描けないだって? それって、いったいどういうこと!?」
って言われそうなので、これから、そのお話をしていこうと思います。
『さかな、愛』
紙(キャンバス)に絵を描くとき、実は作者は頭の中に既に何らかの“絵”が存在しているのです。
そして、これを現実化するために絵具を紙に塗るのです。
つまり、まったくの白紙ではないのです。
想像力豊かな人は、頭の中に常にいろいろなイメージが湧いていて、後は、それを紙(キャンバス)に表現していくだけで、立派なアート作品になります。
また、日常生活の風景やさまざまな過去の芸術作品などから、ふと自分なりのイメージが湧き、それが新しい作品となっていきます。
私の場合も、日々の生活の中で、突然に頭の中に新しいイメージが湧いてくることがありますネ~。
もっとも、そのイメージを実際の作品にしようとする時には、たいていは当初の新鮮さが失われていて、つまらない作品にしか仕上がらないのですが・・・
では、そもそも“創造”って何なのでしょうか?
そして、なぜ、人は思うように自由に描けないのでしょうか?
『変』
今日は、“創造”というものを考えるために、ここで、子供の絵を考えてみましょうかぁ。
子供は創造的な存在だ、とよく言われますネ~。
子供が描いた絵は見ていてたのもしいがありますネ~。
でも、子供が描いた絵で歴史に残る作品はあったでしょうか?
どんなに天才と言われた画家であっても、その子供の時の絵を見ると、とても名作とはいえないでしょう。
子供の絵は、アートの創作には確かにいいヒントにはなります。
なぜなら、その絵は常識的なものに縛られていないからです。
例えば、人物に手が無かったり、宙を飛んでいたり、虫の大きさが人間を超えていたり・・・
これが少し大人になってくると事情は違ってきて、ちゃんと人には手足を描き、りんごは赤く、太陽は丸くなど、当たり前の“普通の”絵に近くなってきます。
『母親と遊ぶ4人の子供たち』
このように、子供は、技術的な未熟さも手伝って、大人のような常識に縛られていないため、大人が描けない絵を描いています。
でも、よく子供は創造性に富む、などと言われますが、子供が描いた絵は、アートと言えるようなものではないのも確かなことですネ。
つまり、大人が描けない絵を描くという意味では創造的です。
でも、それは、けっして芸術作品といえるものではない。
では、子供がアートを創作することが出来ないのはなぜなのでしょうか?
それは、子供には、創造の土台となるものが無いからなのです。
その土台とは、その人の生き方が大きく関わっていきます。
そこには様々な戦いや苦しみ、驚きや喜びなどの体験があります。
それらが土台となってアートは創造されていくのですネー。
子供にはそうした土台がないために、アートは創れないのですヨ。
『森』
では、さまざまな経験を積んだ大人が、すべて創造的なアートを生み出せるかと言えば、実は全くそうはいっていないのも事実ですネー。
アートに限らず、どんな分野であっても創造的な仕事を成し遂げる人と言うのは、いつの時代でもごく僅かですネ~。
では、創造的な人とそうではない人との違いはどこから来るのでしょうか?
つづく
私とシュールレアリズム(2) [アート]
こうして、いろいろな“わけがわからない”作品がとても好きになってきたのでした。
人は、ひとたび“眼”が開かれると、その開かれた眼によって、それまで見えなかったものが見えるようになるのでしょうネー。
むしろ、“わけがわからない”作品の方が、強く印象に残ってくるのです。
パブロ・ピカソ 『首飾りの婦人』
いわゆる“綺麗な”作品は、確かに見ていて気持ちがいいですネ。
でも、それはその技術的な上手さに対して、「大したものだなぁ」とか、「ここまで上手くなるには相当の練習を積んだんだろうなぁ」などと、作者の努力の方に気持ちが行ってしまい、肝心の作品は数日もすると印象が薄れてしまっているのです。
そうした綺麗な作品は、部屋やオフィスの壁に飾っていたら、さぞ見映えもいいことでしょう。
でも、人の心に強く印象付き、観ている人の人生の方向性を変えるほどのパワーは無いと思いますヨ。
皆さんは、どうですか?
一見して何が表現されているのかが良くわかる作品と、どう考えても何なのかがわからない作品とがあった場合、どちらに心が惹かれますか?
「ハイ、わたしはやっぱり、何なのかがよくわかる作品の方が好きですヨー」
って言われる方も大勢いると思います。
HAYAO 『鳥と遊ぶ男』
それはそれでいいのです。
人それぞれの好みの問題ですから。
いわゆる“綺麗な”作品の中にも、強く印象に残る作品はたくさんあります。
いや、むしろその方が多いのかもしれませんネー。
「オイオイ、いったいどっちなんだ?」
って言わないでください。
確かに綺麗な作品にも素晴らしい作品はたくさんあります。
しかし・・・・・・・
現代のように写真が手軽に撮れる時代にあっては、私には写実的な作品ではどうしても創造性に欠けるような気がするのです。
写実的な作品ならば、アマチュアがデジカメで創った作品でも、素晴らしい作品がいっぱいあるように思えます。
(ちなみに先日、私は新しくデジカメを買い換えましたぁー。これを使って、取材旅行で撮影しようと思います。Panasonic LUMIX DMC-TZ10 1450万画素(総画素)/1210万画素(有効画素) 光学ズーム:12倍 AVCHD Lite動画)
もちろん、私は、いわゆる“綺麗な”作品を否定しているのではありません。
それはとても素晴らしい作品だと考えています。
どんなにデジタルカメラが発達しようとも、絵画にはその独特の表情があるのですからネ。
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さて、ダリによって開かれた、私の中に芽生えたシュールレアリズムの“眼”が、それまでなんとも感じなかった芸術作品を観る力を身につけさせたのかもしれませんネー。
さらに、絵画だけでなく彫刻や書、陶芸などにも強い興味を持つようになりました。
彫刻に関しても、何の形なのかがはっきりわかる作品よりも、一見したところよくわからない作品に惹かれるようになりました。
加藤唐九郎 志野茶碗『紫匂(むらさきにおい)』
ただ好き嫌いはもちろんあります。
有名で“名作”と言われる作品でも、全く興味を感じなかったり、逆にあまり知られていない作品でも、私から見れば名作だなーと感じるものもあります。
たとえば、ピカソの有名な作品の『ゲルニカ』やモネの作品には私は何とも感じないのですが・・・
こうしたことから、自分でも作品を創作するようになっていきました。
絵を観るのは楽しいことですが、“自分の”絵を描くということは、もっと楽しいことです。
今日は、『私とシュールレアリズム』という題でお話ししています。
でも、私はシュールレアリズムなどとか難しく考えなくても、自由に創作すればいいと思っています。
どこまでも自分に正直であることが大事だと思っています。
このように自分の作品を創作することの喜びが大切なのですヨ。
ですから、私は皆さんに、「どんな作品であっても自由に創作し続ける」ことをお勧めします。
『魚釣りをする男』
上の私の作品を観て、皆さんはどう思い、感じましたか?
「へぇ~! こっ、こんなんでいいのかい!? この程度なら、ワシにもすぐに描けるわい」って思いませんでしたか?
絵なんて、簡単でしょう?
私は、以前から次のような『アーティストの三原則』というのを挙げています。
好かれようとしてはいけない
認められようとしてはいけない
褒められようとしてはいけない
アーティストにとっては、人に認められようなどと考えることしないほうがいいと思っています。
でも、作品を創作する以上、自分だけがそれを観て楽しむというのは、あまりにもつまらないことです。
私は、ダリをはじめとした多くのアーティストの作品に感動し、喜びや驚きを与えられました。
そのように、自分の作品もまた、多くの人たちに感動を与えるようになって欲しいと考えるのも自然なことですネー。
むしろ、私は、『アーティストの三原則』によってこそ、結果的に人に感動を与え、文化・国境・時代を超える素晴らしい作品を生み出すと思うのですヨー。
完
私とシュールレアリズム(1) [アート]
今日は、私と芸術、特にシュールレアリズムについてお話していこうと思います。
アートと言うものは、理屈で考えてもわかるものではありませんネ~。
ですから、今日は私の体験を通して、アートっていうものをお話していこうと思います。
『音楽を聴く男』
まず、以前にもお話しましたように、シュールレアリズム(超現実主義)とは現実を超えて離れていたり、非現実である事を言うのではありません。
日本ではちょっと変わったものを“シュールな”と言ったりします。
でも、シュールレアリズムとは単に、変わっているものを言うのではありません。
それは、実は「過剰なまでに現実」「上位の現実」「ものすごい現実」というような意味なのです。
私の作品が、いわゆるシュールレアリズムと言えるかどうかはわかりません。
百人のシュールレアリストがいれば、百通りのシュールレアリズムがあるでしょう。
シュールレアリズムに対する考えもそれぞれ違うと思います。
でも、私がシュールレアリズムの画家・サルバドール・ダリに影響を強く受けて創作を始めた事には間違いありません(作風は全く違いますがネ!)。
そもそも、シュールレアリズムっていう言葉を使うこと自体、私にはどうでもいいのですが・・・
私がダリの作品に出会ったのは19歳の時、たまたまNHK教育テレビの『日曜美術館』を見た時でした。
その中で、ダリの≪目覚めの一瞬前、ザクロの実の周りを飛ぶ一匹のミツバチによって生じた夢≫という、なんとも長々しい題名の作品が映し出されました。
この作品を見て、私は「絵画って面白いなー、何でも描いていいのだなぁ」と思ったのです。
サルバドール・ダリ 『目覚めの一瞬前、ザクロの実の周りを飛ぶ一匹のミツバチによって生じた夢』
この作品を皆さんは今まで目にしたことはありますか?
「えーと、どこかで見たことがあるような、無いような・・・」ですって?
この作品はダリの作品の中でも知る人ぞ知るっていう作品でしょうか?
さて、その数ヵ月後、再び、私は“なんとなく”テレビをつけて見た『日曜美術館』に、ダリの≪記憶の固執≫という作品が映し出されているのを見ました。
これは時計がグニャっと曲がったあの有名なダリの代表作品です。
これを見たとき、「凄い!」と感じました。
そこですぐに近くの図書館に行き、ダリの作品集を探して、その作品を観たのです。
ダリの数多くの作品を観ているうちに、「これが自分の世界だ。自分もこのように自由にいろいろな絵を描いてみたい」と思うようになったのです。
サルバドール・ダリ 『記憶の固執』
「芸術に感動した」、と言うのは、まさにこういうのを言うのでしょうネ。
この時、人の行くべき方向をも変える力を持つのが、芸術なのだと理解しました。
どうです、皆さんはそのような体験をしたことはありますか?
私が堂々とアートを論じる事が出来るのは、こうした体験があるからですよー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が“なんとなく”つけて見たテレビ番組がきっかけに、その後の自分の方向性が大きく変わっていったのです。
皆さん、今、私は“なんとなく”って言いましたが、ここに“運命”って言うものを感じませんか?
皆さんも、このような出会いによって、自分のその後の生き方の方向性が大きく影響を受けることになった、っていう経験があると思います。
え!?
「私には、そのような芸術作品との凄い出会いは、今までありませんでしたヨー。きっと、あなたは特別なんだぁ~」
って言われる方がいるかもしれませんネー。
でも、出会いがアートに限らないとしたらどうでしょう?
芸術作品に限ってではなく、何か(あるいは、誰か)と出会い、それによって、生き方の方向性が大きく変わってしまったっていう体験を・・・
こうした偶然の出来事(人との出会いなど・・・)が、その後の自分の人生を大きく変える事になった、って言うことは、誰しもあるでしょう。
アートとの出会いは、まさに恋愛に似ているのかもしれませんネ~。
『縁(EN)』
“なんとなく”の出来事(出会い)が、自分のその後の方向性を大きく変えていく。
そうした出会いは、予想外の時に突然やってくる。
実は、そこに“衝動意識”っていうものが動いているのですネー。
私が「アートは衝動である」と言っているのは、そうした自分自身の体験にもとづいているのですヨ。
つづく
シュールレアリズムについて(3) [アート]
私に強い感動を与え、芸術の眼を開いてくれたのは、サルバドール・ダリです。
そのダリはシュールレアリストの中でも特に異端的存在と言えますネー。
ダリは1904年にスペインの田舎町フィゲラスで生まれました。
サルバドールとは「救世主」という意味です。
ダリはフロイトの著作や精神分析に深く心を奪われ、ダリ独自の「偏執狂的批判的(パラノイアック・クリティック)」方法というものを生み出しました。
これは「精神錯乱の世界を造形的手段によって具体化しうるような、積極的な方法」ということです。
上の写真がサルバドール・ダリです
つまり、今でいう統合失調症の妄想の世界を芸術作品として表現しようと言うことでしょうか。
ダリの作品には、“長い棒”のようにフロイト的なリビドー(性欲)的解釈が見られ、セクシュアルな表現に満ちています。
1938年には、ナチス・ドイツから逃れてロンドンに住んでいたフロイトに会っています。
フロイトは、ダリのことを「彼以上に完璧なスペイン人は見たことがない。何と言う狂信者だ」と言ったといいます。
ダリ 『「ミレーの建築的晩鐘』
私も、ダリの作品を知ってから、さらにフロイトの精神分析に興味を持ちました。
フロイトの著作の『精神分析入門』『夢判断』などから読みました。
でも、私の場合は、フロイトにはもう一つ馴染めないものを感じましたねー。
皆さんはどうですか?
エディプスコンプレックスだとか、男根期だとか、なかなか面白いことだと思いましたけど・・・
なるほど、人間の心にはそうしたものもあるのかなぁ、と思った程度でした。
これは人間の無意識という深い世界を、その頃20歳前後だった若い私には、あまり理解できなかったことが大きな原因だと思います。
また、私が西洋人ではないということも、フロイトに距離感を感じさせたのかも知れません。
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詩人ポール・エリュアールの夫人が、後のダリ婦人となるガラです。
ちなみに、このポール・エリュアールといいアンドレ・ブルトンといい、その詩作品を読んでも、私にはサッパリわからないのですが・・・??
皆さんもシュールレアリズムの詩を、一度読んでみてはどうですか?
ところで、1932年にガラと結婚して以来、ダリにとって妻のガラは尽きることの無いインスピレーションの源でした。
このように異性との出会いが、アーティストのインスピレーションに火を点けるという事はよくあることです。
皆さんも思いあたることはありませんか?
事実、ガラが1982年に死去した後は、ダリは完全にその活動を停止しています。
ガラとダリです。
晩年には、火事で全身に大火傷を負っています。
私は、テレビでダリが火傷で包帯巻きにされている姿を観た事がありますが、それが印象に残っています。
1989年1月23日、異端のシュールレアリスト、サルバドール・ダリは肺炎と心臓発作で亡くなりました。
享年84歳でした。
今回はシュールレアリズムについて、ざっとまとめてみました。
また、ここでは、ごく簡単にダリについてもお話ししました。
ダリについては、また改めて、さらに詳しく述べていこうと思います。
完
シュールレアリズムについて(2) [アート]
一般に、シュールレアリズムの絵画には大きく分けて2つのスタイルがあります。
一つは、絵の具を滴らせたり、垂らした絵の具を紙にこすり付けてはがした模様を利用する、あるいは自動筆記やデペイズマン、コラージュなどを使い、偶然を重視するものです。
私の作品の中にもそうした技法を使ったものがたくさんあります。
これは、自意識がはいらない状況をあえて作り、そこで絵を描くことで、無意識の世界を表現しようとした画家たちの手法です。
主観や理性や意識が介在できない状態で、偶然出来たものや、そもそも意識の介在から解き放たれた夢の中からこそ、普段気付かれない現実=超現実が出現すると考えました。
マックス・エルンスト、ジョアン・ミロがその代表的な画家です。
彼らの絵画は具象的な形態がなくさまざまな記号的イメージにあふれ、その後の抽象画に大きな影響を与えることになりました。
下はミロの作品です。
ジョアン・ミロ『ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子』
シュールレアリズムのもう一つスタイルは、サルバドール・ダリのように、リアルな描写で現実にはありえない光景を描こうというものです。
そこでは夢や無意識下でしか起こりえない奇妙な世界が描かれました。
同様の作家にはルネ・マグリットやデルヴォーなどがいます。
ルネ・マグリット 『白紙委任状』
彼らの絵の中に出てくる人物や風景はあくまで具象的です。
こうした絵は、普段絵画に全く興味の無い人でも楽しめると思います。
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シュールレアリスムでは、人間が理解している「現実」というものは、実は、単なる一面的な現実であるのだと考えました。
そして、芸術における創造性とは、精神分析の創始者ジークムント・フロイトがいう無意識のなかに宿っているのではないかと考えたのです。
人が芸術の美に感動するのは、実は、無意識が美を感じて、意味を理解するものではないかと考えたのです。
そこで、シュールレアリストたちは無意識による美の創造を考えました。
そのための手段として自動筆記などの技法を使い、無意識の流れに任せて作品を創作していくと思いがけない美が生み出されると考えたのです。
これが、有名なフロイトです。
このようにシュールレアリストたちは、フロイトが主張する「無意識」が、より真実の美や人間や社会についての「真実」を表現するのに有用であると考え、「無意識」を利用した芸術運動を展開したのです。
つづく
シュールレアリズムについて(1) [アート]
今日は、シュールレアリズム(超現実主義)について、その内容と歴史をわかりやすく簡単にお話していこうと思います。
では、シュールレアリズム講義 Lesson1・・・です。
皆さんの中には、シュールレアリズムという言葉を知っている方は多いと思います。
でも、その内容はあまり知らない人が多いのではないでしょうか。
まず、“超現実”とは、現実を超えて離れていたり、非現実である事を言うのではありませんヨー。
日本ではよくちょっと変わったものを、“シュールな”と言ったりしますネ。
そこから何でも変わったものをシュールレアリズムだと考えてしまいそうです。
でも、シュールレアリズムとはただ単に、変わっているものを言うのではないのですよ。
それは、「過剰なまでに現実」「上位の現実」「ものすごい現実」「強度の強い現実」というような意味なのです。
まず、芸術運動としてのシュールレアリズムの始まりは、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが1924年にパリで発表した「シュールレアリズム第1宣言」です。
これがアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896年-1966年)です。
「シュールレアリズム第1宣言」のなかで、彼は「理性による抑制をすべて取り除き、いっさいの美的あるいは道徳的先入観から離れて行なわれるべき思考の書き写しである」と述べています。
当初は、絵を描くというのは意識的な行為であるため、シュールレアリズムの絵画は存在し得ないと考えられていたそうです。
このシュールレアリズム宣言以前にはダダイズムという芸術運動が起こりました。
ダダイズムとは第一次世界大戦の混乱に嫌気がさした芸術家が、本来の人間らしさを取り戻そうという活動です。
このダダイズムに参加していた多くの作家がシュルレアリスムに移り、発展的な形でダダイズムは解消していったのです。
そして、シュールレアリズム運動はその後、政治や思想・文学などさまざまな分野におきな影響を与えることになりました。
つづく
「感じること」と「わかること」の違い(2) [アート]
そして、観る人もその作品を通じて自己発見をしているのです。
(あなたも、今、この作品を観て自己発見している最中ですヨー!)
『逆立ち練習をする姉妹』
えっ!「私はぜんぜん自己発見してませーン」だって?
まぁ、まぁ。
確かに、ある作品を観た時、その感じ方は人それぞれ違いますネー。
同じ「いいなぁ~」と感じても、その感じ方の性質は全く違っているでしょう。
つまり作品は【鏡】とも言えるのです。
それは、あなた自身を映し出す鏡とも言えるのですヨー。
ところで、よくテレビなどで美術評論家などが作品をあたかも理解したかのように解説するのを見ますねー。
例えば「ピカソのこの作品は・・・であり、こうした状況からピカソはこのように描いたのです」などと解説したりする。
確かにそうなのかもしれません。
ピカソは実際にその解説者が言うように考えてその作品を描いたのかもしれない。
が、でも、よく考えてくださいナ。
作者が作品を描く動機と言うものは単純に一つの理由だけで理解できるようではないはずです。
『一切皆空 諸行無常』
たった一つの動機だけで作品を創作するということはあまりないでしょう。
ある出来事や事件などがきっかけで作品を描いたとしても、その背後にはさらに奥深い作者の魂の歴史があると考えられるわけです。
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一般に人は、何か分けがわからないものに対しては何らかの理由付けが出来れば安心する性質があるようですね。
「わけがわからない」作品を前にして、美術評論家の解説を聞いて、その作品が理解できたかのように思うことによって、安心してしまうのです。
つまり、その芸術作品の内側に含まれる、何か得体の知れないものに対して真正面から向き合うよりは、とにかく何らかの形で“理解”できれば安心できるからです。
『突然、声をかけられて、驚いて後ろを振り向いた女』
でも、それでは芸術作品のちょっと上っ面だけをなぞったに過ぎませんヨー。
私は、本当は芸術作品の“理解”などは誰もできないと思っています。
なぜかと言うと、作品には作者自身もわからない様々なことが内在しているからです。
つまり、芸術作品は、完成された時から、その作家を超えて動き始めていると言えるのです。
『アートは創られた瞬間からアーティストを超えている』ということです。
優れた作品ほど、作者の意図を超えた、さまざまな問題が内包されていると考えられるのです。
もしも芸術作品を観て、“理解”することがあるならば、それは、その作品の刺激により発見された自分自身でしょうネ。
皆さん、上の私の作品に、今初めて触れて、どう感じますか!?
“素晴らしい”と感じるか“くだらない”と感じるかは、実にあなた次第ですヨー!
つまり、アートに触れるということは、自己との対話と言えるのです。
作品の持つ、驚異、無邪気さ、不可解さ、苦しみ、ユーモアと向き合うっていくこと。
アートにおいては、作品をわかろうとするのではなく、自分がどう感じたかを見つめていくことが大切なのです。
そうしていけば、さらなる未知のあなたが開けてくる可能性があるのですヨ。
完
「感じること」と「わかること」の違い(1) [アート]
これから、いくつかのテーマでわたしの“芸術についての考え方を述べていきますヨー。
では、まず最初の今日は『芸術作品を観る方法について』です。
皆さんの中で、よく絵画を見て「この作品はわからない、いったい何をいいたいのだろうか」と言う人がいますネ。
こうしたことは特に抽象画を見たときによく聞かれます。
皆さんが本や雑誌に載っている絵を見たり、美術館へ行った時など、作品を見て一生懸命に何が描かれているのかを“理解”しようとするでしょう?
まじめな人は、その作品の解説が書かれたパンフレットや本を調べたりなんかして・・・
でも、ちょっと待って下さい。
そうした努力で、果たして本当にその作品が理解できるようになった事があるでしょうか?
「はい、私は世の中の有名な芸術作品のことはとてもよく理解しています」って言う凄い人がたまにはいるかもしれませんネー。
でも、たいていの人は、「なんとなくわかったような気がしました」、という程度でしょう?
どんな事でも理解したつもりになることは出来ます。
でも、それはどこまでも“つもり”であって、本当の理解とは程遠いものでしょう。
これは、絵画のようなアートだけではなく、人や物事すべてについて言える事です。
『漂流Ⅰ』
でも、どうぞご安心を・・・
アートに関して言うならば、あなたが美術評論家になろうとでもしない限り、芸術作品はわかろうとしなくてもいいのです。
なぜなら、アートに触れるということは、自分をみつめることなのですからネ。
大切なことは、作品を観た時に、自分がどう感じたかが問題なのです。
その時に感じたことがあなた自身の中にある“何ものか”と言ってよいでしょう。
作者が何を表現しようとしたかなどは大した問題ではない。
そんなことはいくら考えたところで、誰も理解できるものではないと思います。
では、あなた自身の中にある“何ものか”っていったい何でしょう?
それは、ずばり、あなたの中に眠る隠された可能性なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実を言うと、私が作品を描く時、本当は何を表現したいのか私自身にもよくわからない時があります。
「えっ! じゃ~いったい何を考えて絵を描いているの?」っていわれるかもしれませんネー。
私が絵を描く時、ただどうしても“それ”を“その時”に“ここで”描かなければならない何かがあるから描くのです。
その意図などは後からの付け足しに過ぎないのかもしれません。
または、はっきりとしたテーマがあったとしても、それは心のほんの表層の部分がそう感じているだけであって、実はその背後には自分自身にも理解できない無意識の何かがあるから描いていると思ってます。
『太陽に向かって叫ぶ男』
心の奥底から沸き起こる“何か”がある、だから、それを作品として表現しているのです。
って言うと、
「へぇ~!隼雄さんって、毎日とても情熱的な生活を送っているんですネー。素敵っ!」
って思う人がいるかもしれません。
いえいえ、全然そんなことははなくて、普段の私はとても平凡な日々を送っているのでしたー!
心に何も沸き起こらなくても作品は創っていますからぁ~。
『母に甘える兄弟たち』
アートなんて、そんな大げさなものではないのです。
日常生活の中にアートがあるのですから。
ところで、意図的な作品は、一見きれいであっても上手に描かれてあっても、どこか迫力に欠け、人に感動を呼び起こすことは無いでしょう。
つづく