SSブログ

いつも、私は全くの白紙の前では、何も描けないでいる!!(2) [アート]

こうした、人間の創造性については、教育の問題ともつながっていくとも思います。
よく、「子供にはその想像力を伸ばすことが大切だ。だから詰め込み教育は問題だ。もっと自由でなければいけない」などと言われたりします。
これについては賛否両論があるでしょうネ。
でも、一つ言えることは、子供がその創造性を伸ばすためには、その土台が無ければいけません。
それが教育であり、躾(しつけ)ともいえるでしょう。
基本的な教育や躾がなければ、創造性につながる土台が出来ないと言えます。
子供にどんなにたくさん自由時間を与えても、そこに創造につながる土台が無ければ、創造性はぐくまれないでしょうネ。

           img103.jpg
           『3つの卵を温めて育てようとするキンカチョウ』

あるいは、自由でありながらも何らかの枠組みがなければならないでしょう。
これについて、カルフと言う心理学者が、“自由にして保護された空間”と表現しています。
カルフという人は、心の病に陥っている子供が、彼女にあずけられるとよく治っていった、っていうスイスの臨床家です。
自由でありながらも、しかも保護されている、そうした空間によってこそ子供はその創造性を発揮し、自らのこころの中心を取り戻していく。
完全な自由放任は逆に創造性の芽を育てる土壌がないとも言えるでしょう。

           img119.jpg
           『家』

100%の自由は逆に何も動けなくなるといえますネ~。
それは言ってみれば、虚空に漂っている存在のようなものです。
その状態では何も掴むものが無く、地に足が着かないため、思うように動けずにただ一人でその場でもがいているだけの状態だといえます。
完全に自由だからこそ、かえって全く動けなくなってしまうのです。
つまり、全くの自由は、かえって創造の力を弱めてしまうのです。

人間の創造力(想像力)なんてものは、案外たいしたものではないものです。
頭をひねって、いろいろと考えても、たいしたものは思いつかないでしょうネ~。
でも、それと同時に、人間には無限の創造の可能性が秘められている事も確かなことです。
その無限に広がる創造の世界につながっていくためには、何らかの土台(芽)がなければならないのです。
そうした自由の中に芽生える芽が、「個性」へとつながってくるのでしょうね。

           img106.jpg
           『森林の栄養、芽』

ここで、再び話をアートにおける創造に戻しましょうネ~。
一般に“創造”には破壊がつきものです。
過去のものを破壊することによって新しいものが創造されていきます。
過去のものにこだわっていれば、いつまでたっても新しいものは生み出されませんネー。
ちなみに、アーティストが“作品を創作する”と言う行為は、常に人類の過去のアートを越えようとする試みであると同時に、それまでの自分を乗り越えようとすることでもあるのです。
ですから、作風がずっと全く変わらないアーティストというのはありえないのです。
そこで、過去のものを越えて、新しいものを作ろうとするには、創造につながる何らかの土台(芽)がなければなりません。
そうした土台がない場合、創造の無い、単なる破壊のみで終わってしまうでしょうネー。

アーティストが、全くの白紙には何も描けないと言うのは、創作の原点となる何らかの“芽”がなければ、何も描けない、と言うことなのです。
私はその土台となるのは、自分が感じた驚きや喜びなどの感性なのではないかと思います。

現在、京都市美術館では『ボストン美術館展』が行なわれていますネー。
私も一昨日、見に行ってきました。
時間によってはとても混み合っているようでした。

           img109  55.JPG
           P1030136  90.JPG

美術館に行く目的は人それぞれ違うと思います。
さて、こうした美術館などに行って、歴史上のいわゆる名作と言われる作品を目にして、皆さんはどう感じますか?
“名作”と言われているから、なんとなく素晴らしい作品に思えてはくるけれども、本当のところなんとも思わない作品も結構多いのではないでしょうか。
印象派の作品を前にして、いったいどれだけの人が、“本当に”素晴らしい作品だと感じているでしょうかネー?
肖像画を観て、「凄い!」って感じる人は、いったいどれだけいるのでしょう?
多くの“専門家??”が、それらを“名作”だと言っている。
だから、それを鑑賞して、これは素晴らしい作品だ、となんとなく思う。
そうした鑑賞の仕方も、あるいはいいかもしれません。

でも、そのように鑑賞をした後に、いったい、どれだけの人が、その後の生活や生き方に大きな変化が出てきたと言えるでしょうか?

そうではなく、作品などを目にして、何か、ちょっとでも“自分が”いいなぁと感じる事がある。
それは誰かが良いと言ったからではない。
誰も注目していない事であっても、純粋に自分がそう感じたとき、それが、“芽”となって、自分の世界が花へと開けてくるのだと思います。

           img040.jpg
           『花』

子供が、アートを創作することが出来ないのは、そうした体験がないからなのです。
創作につながる芽がないため、常識に縛られていないにもかかわらず、子供の作品はアートにはならないのです。
アートに限らず、創造的な仕事をする人と言うのは、様々な体験や知識が土台となって、さらにそこにその人自身が感じた驚きや感動が“芽”となって創造へとつながっていくのでしょネ。
単に多くの知識があり、経験や体験をいくらしたところで、それは単なる“物知り”になるだけであって、それだけでは創造にはつながらない。
それを自分の中で、熟成し新しいものを創り上げるには、自分独自の喜びや感動が核とならなければいけないのです。
こうした感動や驚きの体験抜きにいくら絵を描いても、ありふれた作品しか描くことが出来ない。
他人がどう言っているかは問題ではない、自分がどのように感じるかが問題となってくるのでしょうね。
この“自分が”感じる、と言うことが、その人の本質的なものと関わっています。

自分が素晴らしいと感じたことだから、他人がどう思おうが構わない、っていう考えは、あるいは自分勝手な独りよがりになってしまうかもしれません。

           P1030165  90.JPG
            『壁の卵たち』

でも、アートの世界では、他者の評価はあまり重要でないでしょう。
こうした自分が何に対して、どう感じ、驚くか、あるいは、何に心惹かれるか。
それが、個性であり、その人の“人となり”であり、そして、本質的なものと言えます。
創造的で世界に通じる普遍性というのは、実にそうした自分の個性を見つめるところから出てくるものなのだ。
他者の評価や人がどう感じるか、っていくら考えたところで、かえって物事の本質から離れていってしまうでしょうね。
そうではなく、“自分が”どう感じるかをみつめることから、創造的発見がなされるでしょうね。

つまり、“個性を極めたところにこそ、物事の普遍性がある”と言うことなのです。

                                                             完

      

nice!(0) 
共通テーマ:アート

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。