進撃の巨人、が面白い [アート]
『進撃の巨人』っていうコミックが最近人気を得ています。
アニメでも毎週土曜日の夜に放映されています。
話の内容はざっと次のようです。
・・・今から百年前、突如として出現した謎の「巨人」たちにより、人類は絶滅の危機に立たされた。そこでは人類は、三重の強固な壁を築きその中に逃れ、そこで百年の平和を実現させた。しかし、ある日突如としてその壁をも壊す力を持った超大型巨人が出現した事により、人類は再び巨人の脅威にさらされることになる。そこで主人公のエレン・イェーガーたちが巨人との戦いに挑んでいく。・・・
原作者は諫山 創(いさやま はじめ)さんです。
人間が巨人に喰われるというお話は昔からあるテーマです。
また、動物に人間が喰われることは現実的な問題として現在でもあるわけです。
この『進撃の巨人』の面白いのは巨人に人が捕食されてしまうところにあるようです。
こうした巨人が出現する話の場合、ただ単に巨人や動物が人を殺すというのではなく、『食う』『捕食する』ところにより一層の恐怖感が出てきています。
人が喰われるシーンは恐怖と結びつくためにより一層面白いものとなっています。
巨人が人間を喰うというテーマの絵画ですぐ思い出すのは、『我が子を喰らうサトゥルヌス』でしょう。
これは皆さんもご覧になったことがあるでしょう。
近代絵画の父との異名を持つロココ・ロマン主義時代の画家フランシスコ・デ・ゴヤの作品です。
この絵は、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの間に生まれたサトゥルヌスが、我が子のひとりによって王座から追放されるとの予言を受け、次々と生まれてくる息子たちを喰う逸話の場面を描いた作品です。
『我が子を喰らうサトゥルヌス』はゴヤの(黒い絵)と言われる作品群の代表的なものです。
黒い絵とは、ゴヤが1819年にマドリード郊外に「聾者(ろうしゃ)の家」と通称される別荘を購入し、1820年から1823年にかけて、この家のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群で、黒をモチーフとした暗い絵が多いため、黒い絵と呼ばれています。現在はプラド美術館に全点が所蔵されているそうです。
ゴヤがこの作品を描く前には、ルーベンスが『我が子を喰らうサトゥルヌス』という作品を残してます。
これはバロック期を代表する巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens 1577-1640)が残す傑作的神話画です。
さらに巨人が人間を喰うのならまだしも同じ人間が人間を喰うということはもっと恐ろしいイメージと結びつきます。
サルバードール・ダリの作品では『秋の人肉食(カリバニズム)』という作品があります。
カニバリズム( cannibalism)というのは、人間が人間の肉を食べる行動や宗教的な習慣をいいます。
サルバドール・ダリ 『秋の人肉食(カリバニズム)』
巨人、というテーマでよく知られるのは何と言っても『ガリヴァー旅行記』でしょう。
『ガリヴァー旅行記』は、、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの風刺小説です。
ガリヴァーはさすがに人を食うということはなかったみたいですが、「人が人を喰う」というモチーフは人間が大昔からの進化の過程で動物が他の動物を食べることを繰り返してきた記憶と無関係ではないでしょう。
昔話でも『赤ずきん』は狼が人間を喰うから面白いわけで、これが単に狼が人間を殺してしまう、ではだめなのでしょう。
人がペロッと跡形もなく喰われる話だけがずっと読み継がれて残っているわけです。
中国では昔はいくさで勝つと敵を醢(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上等の酒に漬けて密封したもの)にして食べたそうです。
孔子もこれが好物だったそうですよ。
現在でもどこかの発展途上国ではあるいはそうした風習があるのかも知れませんが。
ひと昔前の中国では偉い人が自分の家に訪ねてきたときに最大のもてなしとしてその家の娘を食事としてさし出すといった話もあります。
三国志などにそうした話が美談として出てきます。
言葉の上でも「あいつは人を喰ったような態度をしてけしからん」などという言い回しがあるように、「人を喰う」とか、「人に喰われる」というイメージは強い不快感や恐怖心と結びついているようです。
われわれ人間は誰しも自分が生活している環境に強い影響を受けているわけですから、これを「環境に食われている」と考えてもよいでしょう。
会社で働いている人は人間関係や仕事上の事などで常にストレスにさらされていますが、あまりにも会社に順応しすぎてしいまうと自分の個性を見失ってしまって、まさに「喰われて」しまった状態になっていくわけです。
さらにいうと、人は誰でもその生きている時代に絶対的な影響下にあるわけです。
どんな天才でも時代の制約から逃れることはできません。
天才は後々の時代にいろんな影響を及ぼすことはできますが、現実的にこの世に生きている以上、その時代の文明や文化の中に閉じ込められているわけです。
こうしたことから、人は「時代に喰われれている」とも言えます。
『友人たちとの歓談』
また、人は誰でも他者に対してなんらかの影響を与えているわけです。
有名人でなくても、生まれたばかりの小さな赤ちゃんでさえ、その存在自体が親や兄弟などその周囲に大きな影響を与えているわけです。
そして周囲の人たちの人生をいろいろと変えてしまっていく。
人間はどんな小さな人であっても、他者に大きな影響を及ぼしているわけです。
ですから、人を喰ったような顔をしなくても誰しもが人を喰っているといってもいいかもしれません。
どんなに自由に生きていると思われる人であっても、常に誰かに喰われているのです。
『進撃の巨人』では巨人との戦いが大きなテーマですが、われわれ人間は誰でもその生きている「時代」という巨人との戦いがテーマなのでしょう。
近現代の歴史の中で知られるもっとも大きな“破壊”といえば第二次世界大戦でしょう。
しかし、核によるテロリズムが起きる恐れがますます大きくなってきている現在、今後はそれを上回る破壊の巨人が襲ってくることは十分に考えられることです。
まさに「ある日突如としてその壁をも壊す力を持った超大型巨人」が出現しても不思議ではありません。
さらに、そうした政治状況だけではなく、人は病気や家庭環境などにも縛られて生きていることは言うまでもないことですね。
『進撃の巨人』で語られる、「その日、人類は思い出した。やつらに支配されていた恐怖を。鳥かごの中にとらわれていた屈辱を」は、まさに現代を生きている人類が実感することではではないでしょうか。
民主主義の国に生きている私たちは以前よりもずっと自由に生きています。
しかし、ちょっと考えてみれば、それは依然として“鳥かご”の中での自由でしかないのに気づかされるはずです。
話では巨人の出現は人類にとって不幸な出来事として描かれています。
しかし、ここで考え方を180度変えてみると、超大型巨人の出現によって壁が破られ、そして鳥かごの中に安住していた人間が戦いに挑むことになるわけです。
この事は私たち誰もが自分の問題として考えてみる必要があるような気がします。
われわれは物事が上手くいっている時はわからないのですが、それはしょせんは鳥かごの中で安住しているだけといえるのです。
この“鳥かご”に安住する、っていうのは、ある意味で一つの成功を収めているから出来るわけでしょう。
しかし、人というものはひとたび“成功”してしまうと、その成功の軛(くびき)にとらわれて、さらに別の大きな世界に飛び出すことが出来なくなるものです。
たとえば、皆さんのなかには、今やっている仕事は一応は上手くいっている。
でも、何かこれは本当に自分がやりたいことではないんじゃないか。
本当は自分にとってもっと大切な別なことがあるんではないか?
でも、今の仕事を辞めることは損なことになる。
会社を辞めると経済的にも困ってしまうだろう・・・
こうした思いを持っている人が多くいるのではないでしょうか。
『進撃の巨人』では主人公のエレン・イェーガー自身がついに巨人になって戦うことになります。
わたしたちも、自分の住んでいる“鳥かご”の壁が破られたならば、エレンのように普通の人から“巨人”に変身できる可能性があるでしょう。
もちろん、その前には巨人に捕食されるという大変な危険がありますが。
鳥かごの中で小さくまとまって生きていくのか、それとも鳥かごを飛び出して大きな世界に飛び出してみる危険をおかすか。
今の自分のままで本当に良いのか?
しかし、人はどんなに鳥かごの中で安住していようを思っていても、いずれは“超大型巨人”の出現によって、いやが応でもでも鳥かごの壁が破られてしまう事になるものです。
それはテロや戦争だけではなく、大地震のような自然災害かもしれません。
あるいは、病気を患ったり人間関係の変化などの個人的な出来事かもしれません。
人の世の中なんてものはギャンブルみたいなところがあって、これで絶対安心だ、ってことはないわけでしょう。
だったら、いっそのこと覚悟を決めて自ら鳥かごの壁を壊してみてはどうだろうか。
あえて現在の成功を捨てる事、鳥かごの安定を捨てる事です。
人間は何か「自分はこれに賭けるんだ」というものがなければ面白くない。
何でもいいから一度でも「自分の人生はこれに賭けた!」と言えるものがなければ、その人は巨人にただ捕食されるだけの人に終わってしまうでしょうでしょうね。
私たちは今まさに、「鳥かごの中にとらわれていた屈辱を」思い知らなければいけません。
『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』 [アート]
病気をテーマにした書物が世の中には無数に出版されています。
でも、それらは私たち大人の視点から見た病気であり医療なのであり、子供の目で見たものではありませんネ。
今日、この『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』を取り上げたいと思ったのは、この作品が子供にとっての病気と言うものはどういうものなのだろうか、または、子供にとっての死とはどのようなものなのかといったことを考えさせてくれる、ひとつのヒントになるのではないかと考えたからです。
はたして、子供にとって、自分や親しい友達が重い病気にかかるということはどのような思いがするのでしょうか。
私自身のことを振り返って見ると、いったいいつ頃から病気の怖さを意識し始めたのかはっきりしません。
私は幼稚園に通っていたときに扁桃腺炎で手術入院をしたことがありますが、死に直面するほどの重病でなかったためか、そしてまだ幼かったためか、そのときにははっきりと病気の怖さを意識はしませんでした。
死というものを意識しはじめたのは、恐らく小学校低学年のときに叔母がまだ若くして病気で亡くなったときでしょう。
そのとき、訪れた病室で白い布が叔母の顔に掛けられてあったのを鮮明に覚えています。
この時、これが死というものなのだと感じたような記憶があります。
この『チャーリー・ブラウン なぜなんだい』では、ライナスとチャーリー・ブラウンがジャニスの突然の入院によって、病気、あるいは、死というものに向きあうことになります。
病気というものは、人の心をその“内面”に向かわせてくれるものなのでしょう。
そうしたところから発せられた疑問がライナスの「どうしてチャーリー・ブラウン。なぜなんだい?」という言葉なのではないでしょうか。
私たち大人と、子供との違いはいったいなんでしょうか?
それは、大人に比べて、子供と老人はより死(あの世)に近い存在だということです。
つまり、子供はあの世からやってきた存在であり、老人は近い将来あの世に逝かなければならない存在であるという意味で、死に近い存在だと考えられます。
そこで考えられる事は、子供にとっての“病気”、あるいは“死”はわれわれ大人が考えるそれとは自ずから違ったものになってくるのではないか、ということです。
児童文学は子供だけが読む子供だけのための読み物ではなく、それは子供の目を通してみた世界が描かれている文学だと思います。
そして子供の目は大人と違って常識に曇らされていないので、案外物事の本質を見抜いているのかもしれませんよ。
『Family』
絵画などの創作現場では、常に常識との戦いとも言えるでしょう。
常識に曇らされた自分をいかに突き破るか、と言うことです。
そうした戦いによって新しい創造が出来るわけですからネ。
かといって、単に奇をてらった変わったものを作ろうとしても、それが創作とはならないことも多いわけで、そこが難しいところです。
これは、何も芸術作品の創作現場だけのことではないでしょうね。
わたしたちは、普段の日常生活におきましても、何かに向き合うに当たって“子供の目”でもって物事を見ることが時には必要なのかもしれませんね。
この『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』は、人の病気や死、さらに“創作”という事についていろいろと考えさせられました。