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私は彫刻と書をまったく区別していない(2) [アート]

書作品は漢字文化圏ではない人が観たら、抽象画と見えることもあるでしょう。
今日は、まず下の書作品をご覧下さい。


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          『こころ』  

これは「心」という字です。

では次の作品はどうでしょう。

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          『沈み心・・・よどみ、迷う』

これも「心」という字です。
上の作品は、漢字を知っている方ならば、恐らく誰でも「心」という字だとわかると思います。
それに比べ、下の作品になると、ほとんど抽象画に見えると言ってもいいのではないでしょうか。
真っ白の紙に真っ黒の字(模様)が描かれてあり、漢字を知らない外国人から観たら、斬新な抽象画に見えるかもしれませんネー。
漢字を知っている人が観るよりも、むしろ外国人のほうがその意味を知らないために、より素直に印象深く感じるかもしれません。

皆さんはこの二つの「心」のどちらに心打たれましたか?
え!? どちらもなんとも感じない、ですって?

うーン、それでもいいのです。
アートというものは、まさに人との出会いと同じです。
皆さんも異性に一目惚れしたことってあるでしょう?
一目惚れは、自分のその時の内的状況とタイミングによって、いわば偶然に起こるものですネェ。
たとえば、目の前に突如、恰好いい男性が現れたとします。
でも、必ずしも一目惚れをするとはなりませんねぇ。

その時に、病気でもがいていたり、仕事に振り回されていて忙しくて仕方がない場合なんか、一目惚れなんかしている余裕はないでしょう!?
または、ここの作品に感動して、目の前の男性が色あせて見えるって事もあるかもしれませんヨー!?             
アートとの出会いも人との出会いと同じなのです。
“その時”の自分に必要とする“何か”が、絶好のタイミングで作品として目の前に現れた時、作品は強烈なインパクトを持って自分の魂を突き動かしてしまうものなのですから・・・

ところで、漢字を知らない文化の人が書作品を観るということは、われわれが外国語の音楽を聴いた時に、その意味がわからなくても感覚で楽しんでいるのと似ています。
言葉の意味がわからなくても、聴いていて何となくいいものはいい音楽だし、悪いものは悪いのです。

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           『秋』

書作品でも同じです。
むしろ、漢字の意味を知らない人の方が私たちよりも、より新鮮に何かを感じ取ることが出来るかもしれません。
逆に、漢字文化圏の人が書を観る時は、その字の意味を知っているために、より深く感じて、想いを巡らすことが出来る可能性があるのです。
その字の背景に含まれる意味に、過去の自分を振りかえったりするかもしれない。
また、もっと広く社会や歴史に想いを巡らせたりすることもあるかもしれません。

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では、彫刻の方はどうでしょう。
彫刻は立体的に自分が表現したいものを表現できるのが大きなメリットと言えます。
しかも、一つの作品でも、どの方向から見るかでその表情を変えることができます。
ある方向から見たら喜びの表情が観られ、別の方向から見れば悲しみの表情が観られるというようにです。
このように絵画や書と違って彫刻は、一つの作品に様々な表情を比較的簡単に表現できる可能性があります。
さらに彫刻はその形だけではなく、色、質感、材質などによってもさまざまな表情が表現できますネ~。

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              『鳥(TORI)』

以上、これまで絵画・書・彫刻について、簡単にその違いを述べてきました。
それでも、私にはそれらはまったく同じものなのですヨっ!!

「へぇー! でも、これまで、絵画も書も彫刻も、それぞれ全く違うって事を言っていたのじゃないですか~? 隼雄さん、いったいなんでそれを同じだって言うの??」ですって?

まぁ、聴いて下さい。

まず、彫刻は絵画や書作品同様、見た目で明らかに何が表現されているものかがわかるものと、そうでないものがあります。
「何が表現されているのかわからない。でも、なんとなく心に響くものがある」というのもあれば、
「何かはわかるが、なんとも感じない」という作品もあります。
これは絵画や書と同様です。

つまり、彫刻でも絵画や書であっても、その作品の内在するパワーと、それを観る人の魂の歴史や感性の深さ、そしてタイミングによって、感じ方は千差万別と言えるのです。
芸術作品は結局は作品とそれを観る人の問題と言えるのです。
言うならば、アートと言うのは、その作品様式が何であれ、作品のもつパワーと自己とのぶつかり合いといえるのです。

どうです? 
これで私がそれぞれが同じだと言った理由(わけ)がおわかりですか?

作品と自分とが絶好のタイミングで出会った時、人はそれまでの自分を超える新たな自己発見をすることになるのですよ。

私は、彫刻と書と絵画を、全く区別していない!!
                                                   完
          
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私は彫刻と書をまったく区別していない(1) [アート]

皆さん、こんにちは。

さて、今回は絵画のみならず、彫刻や書についても、ひとつ私の“芸術論”を展開してみようと思います。

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って言うと、
「オイオイ、そんなに範囲を広げてしまって大丈夫なのかい、あんたぁ!?」って言われるかもしれません。
でも、それが大丈夫なのだ。
なぜなら、私にとっては、絵も彫刻も書も全部ひっくるめて同じものなんだから・・・

ではまずは、書と絵画の違いについてお話していきましょうか。

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           『福(HUKU)』

まず、私の絵画作品の中には、かなり書の要素が含まれているものもあります。
それらの作品を“絵画”と考えるか“書”と考えるかの区別を、私は便宜上、次のようにしています。

1、字の意味を考えないで純粋にその形状を利用してイメージで描いたものを、「絵画」と考えます。
2、模様が無く字のみの作品、あるいは、字の意味を考えて書いたものは「書」とします。
3、さらに、二度塗り、重ね塗りをしたものは「絵画」と考えます。
4、背景に絵や模様があっても、前面に表現される「字」がテーマとなっているものは「書」とします。

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         『躍る身、はずむ心』       

上の二つの作品を見て、皆さんは絵だと思いますか?それとも、書だと考えますか?
実は私は、作品が絵画であるか書であるかを、あまり難しく考えないようにしています。
どちらも自分を表現する、という意味では同じものであるため、厳密に区別する意義も見出されないからです。

これは私が画家の視点で書を見ているからかもしれませんネー。
“画家が書いた書”と“書家(あるいは書道家)が書いた書”とは自然と違いが出てくるのかもしれません。
私が書作品を書くときは、かなり絵画的な見方で作品を考えていると思われます。

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         召使いの筆たち  

もっとも、アーティストであるならば、私は画家とか書家とかの区別もあまりしたくはないのです。
なぜなら、画家であろうが書家や彫刻家であろうが、大切なのは作品ではなく、その生き方だと思うからです。
アーティストにとって、作品というのは、所詮、出来上がった瞬間から、自分の抜け殻のようなものなのです。
アーティストは作品を創った瞬間から、すでに作品を超えた存在になっているといってもいいでしょう。
また、常に自分の作品を超えようともがいているのがアーティストの姿だともいえますネ~。

アレ? 
おかしいじゃないか??
それって、逆じゃないの?
「以前に、『作品は創られた瞬間から作者を超えている』って、言っていたじゃないか」ですって?(『「感じる事」と「わかること」の違い(2)』)

そっ、そうなのでした。
でもこれはチットモおかしなことではないのですヨー。
つまり、こういう事です。

作品というのは、その作者のその時点での内面の表現であって、いわば作者の抜け殻みたいなものだと言うことです。
作者は、作品を創作したときには、さらに次の創造に向かって歩んでいるのです。
それと同時に、芸術作品は、作者の本来の意図を超えて、さらに深いパワーを持つ可能性がある、って言うことです。
作者が、真にその内面を見つめて作品を創作する時、作品は作者の予想をはるかに超える深い力を内包することになってくるのです。

つまり、
“アーティストは作品を創った瞬間から作品を超え、同時に、作品は創られた瞬間からアーティストを超えて動き始める”っていうことです。

おわかりですか?
えっ! 益々わからなくなった?
この芸術論もいよいよ哲学になってきたかな?

いっそうの事、この際、「芸術は抜け殻だ!!」って宣言してしまいましょうか?

でも、“芸術が抜け殻”ではぜんぜん格好良くないので、宣言は止めときます。
私のアーティストとしてのイメージダウンになってしまいそうだし・・・

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         『魚と一緒に海を泳ぐ姉妹』

閑話休題(それはともかく)、自分が創作した作品にとらわれていては次の作品に向けての創造性がなくなってくるでしょうネ。
ほとんどの人が、創作活動において、自分が創った作品にとらわれて、そこから抜け出せないで苦悩するのです。
アーティストは自分の作品から常に抜け出そうと、懸命にもがいている人とも言えますネー。

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ところで、書の場合は、「字」というその民族の共通認識が背景にあるため、その形態が人々の共有するイメージを呼び起こします。
ですから、書作品を観た時、漢字文化圏の人が観た場合と、そうでない人が観た場合とは、その捉え方は自然と違ってきます。

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例えば、『美』という字を考えてみましょう。
『美』という漢字の意味を知っている漢字文化圏の人は「綺麗、すてきなもの」という想い、あるいは、先入観があって、その作品を観るでしょう。
そこから、その作品の善し悪しなどをその人なりに判断することになります。
でも、漢字文化圏でない人は、漢字の意味を知らないから、純粋にその形態からイメージします。
ですから、『美』という作品を場合によっては「醜い、汚い、いやなもの」というような感じ方をするかもしれません。

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         『美・美・美』

あるいは、美とか醜いとかといったものとは全く違う感じ方をすることもあると思います。
例えば、「美味しそう」「音楽的でリズム感がある」といった様に。
このように、漢字文化圏以外の人はその意味を知らないため、われわれとは違った意外な方向で芸術的価値を見出してくる可能性があるのです。

                                                                   つづく
          
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いつも、私は全くの白紙の前では、何も描けないでいる!!(2) [アート]

こうした、人間の創造性については、教育の問題ともつながっていくとも思います。
よく、「子供にはその想像力を伸ばすことが大切だ。だから詰め込み教育は問題だ。もっと自由でなければいけない」などと言われたりします。
これについては賛否両論があるでしょうネ。
でも、一つ言えることは、子供がその創造性を伸ばすためには、その土台が無ければいけません。
それが教育であり、躾(しつけ)ともいえるでしょう。
基本的な教育や躾がなければ、創造性につながる土台が出来ないと言えます。
子供にどんなにたくさん自由時間を与えても、そこに創造につながる土台が無ければ、創造性はぐくまれないでしょうネ。

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           『3つの卵を温めて育てようとするキンカチョウ』

あるいは、自由でありながらも何らかの枠組みがなければならないでしょう。
これについて、カルフと言う心理学者が、“自由にして保護された空間”と表現しています。
カルフという人は、心の病に陥っている子供が、彼女にあずけられるとよく治っていった、っていうスイスの臨床家です。
自由でありながらも、しかも保護されている、そうした空間によってこそ子供はその創造性を発揮し、自らのこころの中心を取り戻していく。
完全な自由放任は逆に創造性の芽を育てる土壌がないとも言えるでしょう。

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           『家』

100%の自由は逆に何も動けなくなるといえますネ~。
それは言ってみれば、虚空に漂っている存在のようなものです。
その状態では何も掴むものが無く、地に足が着かないため、思うように動けずにただ一人でその場でもがいているだけの状態だといえます。
完全に自由だからこそ、かえって全く動けなくなってしまうのです。
つまり、全くの自由は、かえって創造の力を弱めてしまうのです。

人間の創造力(想像力)なんてものは、案外たいしたものではないものです。
頭をひねって、いろいろと考えても、たいしたものは思いつかないでしょうネ~。
でも、それと同時に、人間には無限の創造の可能性が秘められている事も確かなことです。
その無限に広がる創造の世界につながっていくためには、何らかの土台(芽)がなければならないのです。
そうした自由の中に芽生える芽が、「個性」へとつながってくるのでしょうね。

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           『森林の栄養、芽』

ここで、再び話をアートにおける創造に戻しましょうネ~。
一般に“創造”には破壊がつきものです。
過去のものを破壊することによって新しいものが創造されていきます。
過去のものにこだわっていれば、いつまでたっても新しいものは生み出されませんネー。
ちなみに、アーティストが“作品を創作する”と言う行為は、常に人類の過去のアートを越えようとする試みであると同時に、それまでの自分を乗り越えようとすることでもあるのです。
ですから、作風がずっと全く変わらないアーティストというのはありえないのです。
そこで、過去のものを越えて、新しいものを作ろうとするには、創造につながる何らかの土台(芽)がなければなりません。
そうした土台がない場合、創造の無い、単なる破壊のみで終わってしまうでしょうネー。

アーティストが、全くの白紙には何も描けないと言うのは、創作の原点となる何らかの“芽”がなければ、何も描けない、と言うことなのです。
私はその土台となるのは、自分が感じた驚きや喜びなどの感性なのではないかと思います。

現在、京都市美術館では『ボストン美術館展』が行なわれていますネー。
私も一昨日、見に行ってきました。
時間によってはとても混み合っているようでした。

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美術館に行く目的は人それぞれ違うと思います。
さて、こうした美術館などに行って、歴史上のいわゆる名作と言われる作品を目にして、皆さんはどう感じますか?
“名作”と言われているから、なんとなく素晴らしい作品に思えてはくるけれども、本当のところなんとも思わない作品も結構多いのではないでしょうか。
印象派の作品を前にして、いったいどれだけの人が、“本当に”素晴らしい作品だと感じているでしょうかネー?
肖像画を観て、「凄い!」って感じる人は、いったいどれだけいるのでしょう?
多くの“専門家??”が、それらを“名作”だと言っている。
だから、それを鑑賞して、これは素晴らしい作品だ、となんとなく思う。
そうした鑑賞の仕方も、あるいはいいかもしれません。

でも、そのように鑑賞をした後に、いったい、どれだけの人が、その後の生活や生き方に大きな変化が出てきたと言えるでしょうか?

そうではなく、作品などを目にして、何か、ちょっとでも“自分が”いいなぁと感じる事がある。
それは誰かが良いと言ったからではない。
誰も注目していない事であっても、純粋に自分がそう感じたとき、それが、“芽”となって、自分の世界が花へと開けてくるのだと思います。

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           『花』

子供が、アートを創作することが出来ないのは、そうした体験がないからなのです。
創作につながる芽がないため、常識に縛られていないにもかかわらず、子供の作品はアートにはならないのです。
アートに限らず、創造的な仕事をする人と言うのは、様々な体験や知識が土台となって、さらにそこにその人自身が感じた驚きや感動が“芽”となって創造へとつながっていくのでしょネ。
単に多くの知識があり、経験や体験をいくらしたところで、それは単なる“物知り”になるだけであって、それだけでは創造にはつながらない。
それを自分の中で、熟成し新しいものを創り上げるには、自分独自の喜びや感動が核とならなければいけないのです。
こうした感動や驚きの体験抜きにいくら絵を描いても、ありふれた作品しか描くことが出来ない。
他人がどう言っているかは問題ではない、自分がどのように感じるかが問題となってくるのでしょうね。
この“自分が”感じる、と言うことが、その人の本質的なものと関わっています。

自分が素晴らしいと感じたことだから、他人がどう思おうが構わない、っていう考えは、あるいは自分勝手な独りよがりになってしまうかもしれません。

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            『壁の卵たち』

でも、アートの世界では、他者の評価はあまり重要でないでしょう。
こうした自分が何に対して、どう感じ、驚くか、あるいは、何に心惹かれるか。
それが、個性であり、その人の“人となり”であり、そして、本質的なものと言えます。
創造的で世界に通じる普遍性というのは、実にそうした自分の個性を見つめるところから出てくるものなのだ。
他者の評価や人がどう感じるか、っていくら考えたところで、かえって物事の本質から離れていってしまうでしょうね。
そうではなく、“自分が”どう感じるかをみつめることから、創造的発見がなされるでしょうね。

つまり、“個性を極めたところにこそ、物事の普遍性がある”と言うことなのです。

                                                             完

      

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いつも、私は全くの白紙の前では、何も描けないでいる!!(1) [アート]

皆さん、こんにちは。
今、ここに目の前に真っ白な画用紙が数枚と、絵具と筆が置かれてあるとします。
ここで「ハイ、皆さん!今から何でもいいですから、この真っ白な画用紙に自由に絵を描いてご覧なさい」
って言われたら、どうしますか?
すぐに絵を描くことが出来ますか?

絵ごころがある人なら、すぐにいろいろと絵を描くことが出来るかもしれませんネェ~。
でも、私にはなかなか描けないのです。

こう言うと、
「へぇー、なぜすぐに絵を描くことが出来ないのですかー!?」
って、言う方も多いと思います。
これは別に不思議でもなんでもなく、ただ私はたいした絵の才能が無いから描けないのです。
でも、実はどんなに才能がある人であっても、まったくの白紙には絵を描くことは出来ないのですヨ~。

「え!?才能がある人でも白紙には絵を描けないだって? それって、いったいどういうこと!?」
って言われそうなので、これから、そのお話をしていこうと思います。

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         『さかな、愛』

紙(キャンバス)に絵を描くとき、実は作者は頭の中に既に何らかの“絵”が存在しているのです。
そして、これを現実化するために絵具を紙に塗るのです。
つまり、まったくの白紙ではないのです。
想像力豊かな人は、頭の中に常にいろいろなイメージが湧いていて、後は、それを紙(キャンバス)に表現していくだけで、立派なアート作品になります。
また、日常生活の風景やさまざまな過去の芸術作品などから、ふと自分なりのイメージが湧き、それが新しい作品となっていきます。
私の場合も、日々の生活の中で、突然に頭の中に新しいイメージが湧いてくることがありますネ~。
もっとも、そのイメージを実際の作品にしようとする時には、たいていは当初の新鮮さが失われていて、つまらない作品にしか仕上がらないのですが・・・

では、そもそも“創造”って何なのでしょうか?
そして、なぜ、人は思うように自由に描けないのでしょうか?

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         『変』

今日は、“創造”というものを考えるために、ここで、子供の絵を考えてみましょうかぁ。

子供は創造的な存在だ、とよく言われますネ~。
子供が描いた絵は見ていてたのもしいがありますネ~。
でも、子供が描いた絵で歴史に残る作品はあったでしょうか?
どんなに天才と言われた画家であっても、その子供の時の絵を見ると、とても名作とはいえないでしょう。

子供の絵は、アートの創作には確かにいいヒントにはなります。
なぜなら、その絵は常識的なものに縛られていないからです。
例えば、人物に手が無かったり、宙を飛んでいたり、虫の大きさが人間を超えていたり・・・
これが少し大人になってくると事情は違ってきて、ちゃんと人には手足を描き、りんごは赤く、太陽は丸くなど、当たり前の“普通の”絵に近くなってきます。

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         『母親と遊ぶ4人の子供たち』

このように、子供は、技術的な未熟さも手伝って、大人のような常識に縛られていないため、大人が描けない絵を描いています。
でも、よく子供は創造性に富む、などと言われますが、子供が描いた絵は、アートと言えるようなものではないのも確かなことですネ。
つまり、大人が描けない絵を描くという意味では創造的です。
でも、それは、けっして芸術作品といえるものではない。

では、子供がアートを創作することが出来ないのはなぜなのでしょうか?
それは、子供には、創造の土台となるものが無いからなのです。
その土台とは、その人の生き方が大きく関わっていきます。
そこには様々な戦いや苦しみ、驚きや喜びなどの体験があります。
それらが土台となってアートは創造されていくのですネー。
子供にはそうした土台がないために、アートは創れないのですヨ。

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          『森』

では、さまざまな経験を積んだ大人が、すべて創造的なアートを生み出せるかと言えば、実は全くそうはいっていないのも事実ですネー。
アートに限らず、どんな分野であっても創造的な仕事を成し遂げる人と言うのは、いつの時代でもごく僅かですネ~。
では、創造的な人とそうではない人との違いはどこから来るのでしょうか?

                                                    つづく
          


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