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「感じること」と「わかること」の違い(2) [アート]

作品を創作するということは、作者自身がそれによって新たな自己発見をすることになります。
そして、観る人もその作品を通じて自己発見をしているのです。
(あなたも、今、この作品を観て自己発見している最中ですヨー!)

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             『逆立ち練習をする姉妹』

えっ!「私はぜんぜん自己発見してませーン」だって?

まぁ、まぁ。
確かに、ある作品を観た時、その感じ方は人それぞれ違いますネー。
同じ「いいなぁ~」と感じても、その感じ方の性質は全く違っているでしょう。
つまり作品は【鏡】とも言えるのです。
それは、あなた自身を映し出す鏡とも言えるのですヨー。

ところで、よくテレビなどで美術評論家などが作品をあたかも理解したかのように解説するのを見ますねー。
例えば「ピカソのこの作品は・・・であり、こうした状況からピカソはこのように描いたのです」などと解説したりする。
確かにそうなのかもしれません。
ピカソは実際にその解説者が言うように考えてその作品を描いたのかもしれない。

が、でも、よく考えてくださいナ。
作者が作品を描く動機と言うものは単純に一つの理由だけで理解できるようではないはずです。

           DSCN2470  80.JPG  
            『一切皆空 諸行無常』


たった一つの動機だけで作品を創作するということはあまりないでしょう。
ある出来事や事件などがきっかけで作品を描いたとしても、その背後にはさらに奥深い作者の魂の歴史があると考えられるわけです。

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 一般に人は、何か分けがわからないものに対しては何らかの理由付けが出来れば安心する性質があるようですね。
「わけがわからない」作品を前にして、美術評論家の解説を聞いて、その作品が理解できたかのように思うことによって、安心してしまうのです。
つまり、その芸術作品の内側に含まれる、何か得体の知れないものに対して真正面から向き合うよりは、とにかく何らかの形で“理解”できれば安心できるからです。

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        『突然、声をかけられて、驚いて後ろを振り向いた女』

でも、それでは芸術作品のちょっと上っ面だけをなぞったに過ぎませんヨー。

私は、本当は芸術作品の“理解”などは誰もできないと思っています。
なぜかと言うと、作品には作者自身もわからない様々なことが内在しているからです。
つまり、芸術作品は、完成された時から、その作家を超えて動き始めていると言えるのです。
『アートは創られた瞬間からアーティストを超えている』ということです。
優れた作品ほど、作者の意図を超えた、さまざまな問題が内包されていると考えられるのです。

もしも芸術作品を観て、“理解”することがあるならば、それは、その作品の刺激により発見された自分自身でしょうネ。
皆さん、上の私の作品に、今初めて触れて、どう感じますか!?
“素晴らしい”と感じるか“くだらない”と感じるかは、実にあなた次第ですヨー!
                                   
つまり、アートに触れるということは、自己との対話と言えるのです。
作品の持つ、驚異、無邪気さ、不可解さ、苦しみ、ユーモアと向き合うっていくこと。
アートにおいては、作品をわかろうとするのではなく、自分がどう感じたかを見つめていくことが大切なのです。
そうしていけば、さらなる未知のあなたが開けてくる可能性があるのですヨ。
                                                                           完    
          
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「感じること」と「わかること」の違い(1) [アート]

皆さん、こんにちは。
これから、いくつかのテーマでわたしの“芸術についての考え方を述べていきますヨー。

では、まず最初の今日は『芸術作品を観る方法について』です。
              
皆さんの中で、よく絵画を見て「この作品はわからない、いったい何をいいたいのだろうか」と言う人がいますネ。
こうしたことは特に抽象画を見たときによく聞かれます。
皆さんが本や雑誌に載っている絵を見たり、美術館へ行った時など、作品を見て一生懸命に何が描かれているのかを“理解”しようとするでしょう?
まじめな人は、その作品の解説が書かれたパンフレットや本を調べたりなんかして・・・

でも、ちょっと待って下さい。
そうした努力で、果たして本当にその作品が理解できるようになった事があるでしょうか?

「はい、私は世の中の有名な芸術作品のことはとてもよく理解しています」って言う凄い人がたまにはいるかもしれませんネー。
でも、たいていの人は、「なんとなくわかったような気がしました」、という程度でしょう?

どんな事でも理解したつもりになることは出来ます。
でも、それはどこまでも“つもり”であって、本当の理解とは程遠いものでしょう。
これは、絵画のようなアートだけではなく、人や物事すべてについて言える事です。

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            『漂流Ⅰ』

でも、どうぞご安心を・・・
アートに関して言うならば、あなたが美術評論家になろうとでもしない限り、芸術作品はわかろうとしなくてもいいのです。

          DSCN2448 80.JPG             

なぜなら、アートに触れるということは、自分をみつめることなのですからネ。
大切なことは、作品を観た時に、自分がどう感じたかが問題なのです。
その時に感じたことがあなた自身の中にある“何ものか”と言ってよいでしょう。
作者が何を表現しようとしたかなどは大した問題ではない。
そんなことはいくら考えたところで、誰も理解できるものではないと思います。

では、あなた自身の中にある“何ものか”っていったい何でしょう?
それは、ずばり、あなたの中に眠る隠された可能性なのです。

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実を言うと、私が作品を描く時、本当は何を表現したいのか私自身にもよくわからない時があります。

「えっ! じゃ~いったい何を考えて絵を描いているの?」っていわれるかもしれませんネー。

私が絵を描く時、ただどうしても“それ”を“その時”に“ここで”描かなければならない何かがあるから描くのです。
その意図などは後からの付け足しに過ぎないのかもしれません。
または、はっきりとしたテーマがあったとしても、それは心のほんの表層の部分がそう感じているだけであって、実はその背後には自分自身にも理解できない無意識の何かがあるから描いていると思ってます。

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            『太陽に向かって叫ぶ男』

心の奥底から沸き起こる“何か”がある、だから、それを作品として表現しているのです。

って言うと、
「へぇ~!隼雄さんって、毎日とても情熱的な生活を送っているんですネー。素敵っ!」
って思う人がいるかもしれません。
いえいえ、全然そんなことははなくて、普段の私はとても平凡な日々を送っているのでしたー!
心に何も沸き起こらなくても作品は創っていますからぁ~。

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      『母に甘える兄弟たち』

アートなんて、そんな大げさなものではないのです。
日常生活の中にアートがあるのですから。

ところで、意図的な作品は、一見きれいであっても上手に描かれてあっても、どこか迫力に欠け、人に感動を呼び起こすことは無いでしょう。
                                                                            
 つづく
          
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