私は彫刻と書をまったく区別していない(1) [アート]
皆さん、こんにちは。
さて、今回は絵画のみならず、彫刻や書についても、ひとつ私の“芸術論”を展開してみようと思います。
って言うと、
「オイオイ、そんなに範囲を広げてしまって大丈夫なのかい、あんたぁ!?」って言われるかもしれません。
でも、それが大丈夫なのだ。
なぜなら、私にとっては、絵も彫刻も書も全部ひっくるめて同じものなんだから・・・
ではまずは、書と絵画の違いについてお話していきましょうか。
『福(HUKU)』
まず、私の絵画作品の中には、かなり書の要素が含まれているものもあります。
それらの作品を“絵画”と考えるか“書”と考えるかの区別を、私は便宜上、次のようにしています。
1、字の意味を考えないで純粋にその形状を利用してイメージで描いたものを、「絵画」と考えます。
2、模様が無く字のみの作品、あるいは、字の意味を考えて書いたものは「書」とします。
3、さらに、二度塗り、重ね塗りをしたものは「絵画」と考えます。
4、背景に絵や模様があっても、前面に表現される「字」がテーマとなっているものは「書」とします。
『躍る身、はずむ心』
上の二つの作品を見て、皆さんは絵だと思いますか?それとも、書だと考えますか?
実は私は、作品が絵画であるか書であるかを、あまり難しく考えないようにしています。
どちらも自分を表現する、という意味では同じものであるため、厳密に区別する意義も見出されないからです。
これは私が画家の視点で書を見ているからかもしれませんネー。
“画家が書いた書”と“書家(あるいは書道家)が書いた書”とは自然と違いが出てくるのかもしれません。
私が書作品を書くときは、かなり絵画的な見方で作品を考えていると思われます。
召使いの筆たち
もっとも、アーティストであるならば、私は画家とか書家とかの区別もあまりしたくはないのです。
なぜなら、画家であろうが書家や彫刻家であろうが、大切なのは作品ではなく、その生き方だと思うからです。
アーティストにとって、作品というのは、所詮、出来上がった瞬間から、自分の抜け殻のようなものなのです。
アーティストは作品を創った瞬間から、すでに作品を超えた存在になっているといってもいいでしょう。
また、常に自分の作品を超えようともがいているのがアーティストの姿だともいえますネ~。
アレ?
おかしいじゃないか??
それって、逆じゃないの?
「以前に、『作品は創られた瞬間から作者を超えている』って、言っていたじゃないか」ですって?(『「感じる事」と「わかること」の違い(2)』)
そっ、そうなのでした。
でもこれはチットモおかしなことではないのですヨー。
つまり、こういう事です。
作品というのは、その作者のその時点での内面の表現であって、いわば作者の抜け殻みたいなものだと言うことです。
作者は、作品を創作したときには、さらに次の創造に向かって歩んでいるのです。
それと同時に、芸術作品は、作者の本来の意図を超えて、さらに深いパワーを持つ可能性がある、って言うことです。
作者が、真にその内面を見つめて作品を創作する時、作品は作者の予想をはるかに超える深い力を内包することになってくるのです。
つまり、
“アーティストは作品を創った瞬間から作品を超え、同時に、作品は創られた瞬間からアーティストを超えて動き始める”っていうことです。
おわかりですか?
えっ! 益々わからなくなった?
この芸術論もいよいよ哲学になってきたかな?
いっそうの事、この際、「芸術は抜け殻だ!!」って宣言してしまいましょうか?
でも、“芸術が抜け殻”ではぜんぜん格好良くないので、宣言は止めときます。
私のアーティストとしてのイメージダウンになってしまいそうだし・・・
『魚と一緒に海を泳ぐ姉妹』
閑話休題(それはともかく)、自分が創作した作品にとらわれていては次の作品に向けての創造性がなくなってくるでしょうネ。
ほとんどの人が、創作活動において、自分が創った作品にとらわれて、そこから抜け出せないで苦悩するのです。
アーティストは自分の作品から常に抜け出そうと、懸命にもがいている人とも言えますネー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、書の場合は、「字」というその民族の共通認識が背景にあるため、その形態が人々の共有するイメージを呼び起こします。
ですから、書作品を観た時、漢字文化圏の人が観た場合と、そうでない人が観た場合とは、その捉え方は自然と違ってきます。
例えば、『美』という字を考えてみましょう。
『美』という漢字の意味を知っている漢字文化圏の人は「綺麗、すてきなもの」という想い、あるいは、先入観があって、その作品を観るでしょう。
そこから、その作品の善し悪しなどをその人なりに判断することになります。
でも、漢字文化圏でない人は、漢字の意味を知らないから、純粋にその形態からイメージします。
ですから、『美』という作品を場合によっては「醜い、汚い、いやなもの」というような感じ方をするかもしれません。
『美・美・美』
あるいは、美とか醜いとかといったものとは全く違う感じ方をすることもあると思います。
例えば、「美味しそう」「音楽的でリズム感がある」といった様に。
このように、漢字文化圏以外の人はその意味を知らないため、われわれとは違った意外な方向で芸術的価値を見出してくる可能性があるのです。
つづく
さて、今回は絵画のみならず、彫刻や書についても、ひとつ私の“芸術論”を展開してみようと思います。
って言うと、
「オイオイ、そんなに範囲を広げてしまって大丈夫なのかい、あんたぁ!?」って言われるかもしれません。
でも、それが大丈夫なのだ。
なぜなら、私にとっては、絵も彫刻も書も全部ひっくるめて同じものなんだから・・・
ではまずは、書と絵画の違いについてお話していきましょうか。
『福(HUKU)』
まず、私の絵画作品の中には、かなり書の要素が含まれているものもあります。
それらの作品を“絵画”と考えるか“書”と考えるかの区別を、私は便宜上、次のようにしています。
1、字の意味を考えないで純粋にその形状を利用してイメージで描いたものを、「絵画」と考えます。
2、模様が無く字のみの作品、あるいは、字の意味を考えて書いたものは「書」とします。
3、さらに、二度塗り、重ね塗りをしたものは「絵画」と考えます。
4、背景に絵や模様があっても、前面に表現される「字」がテーマとなっているものは「書」とします。
『躍る身、はずむ心』
上の二つの作品を見て、皆さんは絵だと思いますか?それとも、書だと考えますか?
実は私は、作品が絵画であるか書であるかを、あまり難しく考えないようにしています。
どちらも自分を表現する、という意味では同じものであるため、厳密に区別する意義も見出されないからです。
これは私が画家の視点で書を見ているからかもしれませんネー。
“画家が書いた書”と“書家(あるいは書道家)が書いた書”とは自然と違いが出てくるのかもしれません。
私が書作品を書くときは、かなり絵画的な見方で作品を考えていると思われます。
召使いの筆たち
もっとも、アーティストであるならば、私は画家とか書家とかの区別もあまりしたくはないのです。
なぜなら、画家であろうが書家や彫刻家であろうが、大切なのは作品ではなく、その生き方だと思うからです。
アーティストにとって、作品というのは、所詮、出来上がった瞬間から、自分の抜け殻のようなものなのです。
アーティストは作品を創った瞬間から、すでに作品を超えた存在になっているといってもいいでしょう。
また、常に自分の作品を超えようともがいているのがアーティストの姿だともいえますネ~。
アレ?
おかしいじゃないか??
それって、逆じゃないの?
「以前に、『作品は創られた瞬間から作者を超えている』って、言っていたじゃないか」ですって?(『「感じる事」と「わかること」の違い(2)』)
そっ、そうなのでした。
でもこれはチットモおかしなことではないのですヨー。
つまり、こういう事です。
作品というのは、その作者のその時点での内面の表現であって、いわば作者の抜け殻みたいなものだと言うことです。
作者は、作品を創作したときには、さらに次の創造に向かって歩んでいるのです。
それと同時に、芸術作品は、作者の本来の意図を超えて、さらに深いパワーを持つ可能性がある、って言うことです。
作者が、真にその内面を見つめて作品を創作する時、作品は作者の予想をはるかに超える深い力を内包することになってくるのです。
つまり、
“アーティストは作品を創った瞬間から作品を超え、同時に、作品は創られた瞬間からアーティストを超えて動き始める”っていうことです。
おわかりですか?
えっ! 益々わからなくなった?
この芸術論もいよいよ哲学になってきたかな?
いっそうの事、この際、「芸術は抜け殻だ!!」って宣言してしまいましょうか?
でも、“芸術が抜け殻”ではぜんぜん格好良くないので、宣言は止めときます。
私のアーティストとしてのイメージダウンになってしまいそうだし・・・
『魚と一緒に海を泳ぐ姉妹』
閑話休題(それはともかく)、自分が創作した作品にとらわれていては次の作品に向けての創造性がなくなってくるでしょうネ。
ほとんどの人が、創作活動において、自分が創った作品にとらわれて、そこから抜け出せないで苦悩するのです。
アーティストは自分の作品から常に抜け出そうと、懸命にもがいている人とも言えますネー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、書の場合は、「字」というその民族の共通認識が背景にあるため、その形態が人々の共有するイメージを呼び起こします。
ですから、書作品を観た時、漢字文化圏の人が観た場合と、そうでない人が観た場合とは、その捉え方は自然と違ってきます。
例えば、『美』という字を考えてみましょう。
『美』という漢字の意味を知っている漢字文化圏の人は「綺麗、すてきなもの」という想い、あるいは、先入観があって、その作品を観るでしょう。
そこから、その作品の善し悪しなどをその人なりに判断することになります。
でも、漢字文化圏でない人は、漢字の意味を知らないから、純粋にその形態からイメージします。
ですから、『美』という作品を場合によっては「醜い、汚い、いやなもの」というような感じ方をするかもしれません。
『美・美・美』
あるいは、美とか醜いとかといったものとは全く違う感じ方をすることもあると思います。
例えば、「美味しそう」「音楽的でリズム感がある」といった様に。
このように、漢字文化圏以外の人はその意味を知らないため、われわれとは違った意外な方向で芸術的価値を見出してくる可能性があるのです。
つづく