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「感じること」と「わかること」の違い(2) [アート]

作品を創作するということは、作者自身がそれによって新たな自己発見をすることになります。
そして、観る人もその作品を通じて自己発見をしているのです。
(あなたも、今、この作品を観て自己発見している最中ですヨー!)

           逆立ち練習をする姉妹 85%.JPG
             『逆立ち練習をする姉妹』

えっ!「私はぜんぜん自己発見してませーン」だって?

まぁ、まぁ。
確かに、ある作品を観た時、その感じ方は人それぞれ違いますネー。
同じ「いいなぁ~」と感じても、その感じ方の性質は全く違っているでしょう。
つまり作品は【鏡】とも言えるのです。
それは、あなた自身を映し出す鏡とも言えるのですヨー。

ところで、よくテレビなどで美術評論家などが作品をあたかも理解したかのように解説するのを見ますねー。
例えば「ピカソのこの作品は・・・であり、こうした状況からピカソはこのように描いたのです」などと解説したりする。
確かにそうなのかもしれません。
ピカソは実際にその解説者が言うように考えてその作品を描いたのかもしれない。

が、でも、よく考えてくださいナ。
作者が作品を描く動機と言うものは単純に一つの理由だけで理解できるようではないはずです。

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            『一切皆空 諸行無常』


たった一つの動機だけで作品を創作するということはあまりないでしょう。
ある出来事や事件などがきっかけで作品を描いたとしても、その背後にはさらに奥深い作者の魂の歴史があると考えられるわけです。

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 一般に人は、何か分けがわからないものに対しては何らかの理由付けが出来れば安心する性質があるようですね。
「わけがわからない」作品を前にして、美術評論家の解説を聞いて、その作品が理解できたかのように思うことによって、安心してしまうのです。
つまり、その芸術作品の内側に含まれる、何か得体の知れないものに対して真正面から向き合うよりは、とにかく何らかの形で“理解”できれば安心できるからです。

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        『突然、声をかけられて、驚いて後ろを振り向いた女』

でも、それでは芸術作品のちょっと上っ面だけをなぞったに過ぎませんヨー。

私は、本当は芸術作品の“理解”などは誰もできないと思っています。
なぜかと言うと、作品には作者自身もわからない様々なことが内在しているからです。
つまり、芸術作品は、完成された時から、その作家を超えて動き始めていると言えるのです。
『アートは創られた瞬間からアーティストを超えている』ということです。
優れた作品ほど、作者の意図を超えた、さまざまな問題が内包されていると考えられるのです。

もしも芸術作品を観て、“理解”することがあるならば、それは、その作品の刺激により発見された自分自身でしょうネ。
皆さん、上の私の作品に、今初めて触れて、どう感じますか!?
“素晴らしい”と感じるか“くだらない”と感じるかは、実にあなた次第ですヨー!
                                   
つまり、アートに触れるということは、自己との対話と言えるのです。
作品の持つ、驚異、無邪気さ、不可解さ、苦しみ、ユーモアと向き合うっていくこと。
アートにおいては、作品をわかろうとするのではなく、自分がどう感じたかを見つめていくことが大切なのです。
そうしていけば、さらなる未知のあなたが開けてくる可能性があるのですヨ。
                                                                           完    
          
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